古い時代には、そば打ちが菓子屋の仕事であったことは、案外知られていないのではないだろうか。なぜ菓子屋の仕事になったかといえば、菓子屋には、粉を扱う技術と道具がそろっていたからである。
貞享3年(1686)の記録では、京都で、虎屋、ニロ屋といった菓子屋がそばも打っていた。また、同じ貞享3刊行の井原西鶴『好色一代女』に、「川口屋のむしそば」とある川口屋は、大坂伏見町にあった有名な菓子屋であったという。
江戸でも、江戸中期までは菓子屋がそばを打っていた。これらの菓子屋のうち、虎屋だけは維新の遷都とともに東京に本拠を移し、現在も盛業中だが、もちろん、そばを打っていたのは、江戸時代までの話である。
ところが、京都には今でも、そば屋兼菓子屋の老舗が2軒ある。本家尾張屋と、晦庵河道屋だ。
本家尾張屋の菓子屋としての創業は、室町時代の寛正6年(1465)と古い。現在、この店では、そば屋を営む傍ら、「そば餅」と「そば板」というそば粉を用いた銘菓を販売している。そばは、そば切りが現れる以前の「そばがき」時代から扱っていて、江戸時代には宮中の御用蕎麦司もつとめていた。
河道屋は現在、経営は同じだが、そばの部門が晦庵河道屋、菓子の部門は総本家河道屋と分かれている。創業は元禄のころ。菓子はそば粉を用いた「蕎麦ほうる」一種類だけだが、この菓子、類似品がたくさん現れて、正式名称よりも通りのいい「そばぼうろ」と呼ばれることが多い。
毎年5月には比叡山で桓武天皇の御講が催されるが、河道屋にはその際、当主が必ず登山してそばを打つならわしがある。そのため現当主の植田貢太郎さんも、菓子の方ではなく、まずそば打ちを仕込まれたという。
ところで、本家尾張屋や河道屋が伝える話で興味深いのは、いずれもそばは、京都の富裕層、特に僧侶や公家の注文を賜って打っていた、ということである。
一方で、そば切りは庶民しか食べなかったものを、だんだん上流階級が食べるようになった、という説が根強いが、京都では明らかに違う。むしろ、そば切りは製粉と打つ技術がいるために高くつき、はじめ上流階級しか食べられなかったのではないか。
河道屋先々代当主植田貢三さんが、古文書のそば関連の記事を集めて刊行した『蕎麦志』のなかに、江戸初期の歌人冷泉為久が、法皇御所でそば切りを頂戴したときの和歌が紹介されていた。
くれ竹の ふしのまさへも君かそは
きりへたつとも ゑだそはなれめ
くれ竹の節ほどの僅かな間であっても、君のそばをきり(蕎麦切りにかけている)離そうとしても、枝は離れぬであろう、といった意味だ。そば切りを用いて、一首の恋歌を仕立てている。
この記録ひとつをとってみても、そば切りが庶民の日常の食べ物でなかったことは明白である。
大塚薬報
2007/No.622
大森 周
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