なし崩し

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ものの価値を否定するところから始めるのが、今の日本人に共通した「ふるまい方」


福島、和歌山、宮崎と知事、前知事がばたばたと談合や収賄の容疑で司直の手にかかった。ニュース記事を読んでいるうちに、これらの容疑者たちに共通する「ふるまい方」があることに気づいた。

それは、「とりあえず関与を全面的に否認する」ところから始めて、外堀が埋められるにつれて微妙に関与を認める発言にシフトし、最後に全面降伏するというグラデーションをたどるということである。

別に珍しくもないと思われるかもしれないが、このような「なし崩し」の風が一般化したのは、実はかなり近年のことなのである。

「オレ様化する子どもたち」の著者、諏訪哲二さんによると、この徴候は1980年代中葉に中学高校で見られるようになった。

当時、高校の生徒指導部長であった諏訪先生のところに、トイレで喫煙していた生徒が連れてこられた。「その生徒は喫煙を現認した当のその教師の前で『タバコは吸っていない』と言い張るのである。その教師はびっくりして口がきけない」

以後、「非行事実それ自体をまず否認する」というやり方が全国に蔓延(まんえん)する。カンニングを教師に見咎められても、「していない」と言い張る。授業中の私語を注意されても「聴いているよ」と言い張る生徒たちが出現してきたのである。

諏訪先生は、これが消費社会の消費者に固有のふるまいではないかと推察している。私もこれに同意するものである。

現代人はおのれをまず消費者として規定する。それは受け取る賃金よりも消費する金の方が多いということではなく、とりあえず「消費者マインド」でものを考えるということである。

目の前に示されるすべてを商品として捉え、それをできるだけ安い対価と交換しようとするという傾向のことである。だから、消費者は提示されたものに「できるだけ低い評価額」をつけることからすべてを始めようとする。

商品評価を切り下げるには経験的に有効な方法が2つある。1つは「そんなものに私は興味がない」という「無関心」の態度を示すこと。1つは「その商品がどのように低品質のものであるか私は熟知している」という「事情通」のふりをすることである。

子どもたちにも消費者マインドはしみこんでいる。子どもたちは「学校教育に何も期待していない」という宣言から始めて、教師が差し出す教育的コンテンツの価値など「私には熟知されている(だから学ぶ必要がない)」という物憂げな顔をしてみせる。それでも何年か後には卒業証書を手にして立ち去ってゆく。

学校教育に価値がないと思うなら止めて違うことをすればよいのに…と思うが、いやいや最後まで通って卒業資格を手に入れるところを見ると、彼らの狙いが教育の価値を否定することにではなく、資格をいかに安く手に入れるかにあったことが知れるのである。

ものの価値を否定してみせることによって、より安く手に入れようとするこの「バザールの風儀」は、今や年齢、性別、職業を問わず日本人のあらゆる社会活動に浸潤している。

しかし、知事たちの醜態が示すように「無関心」と「訳知り顔」だけで生き延びてゆけるのは「バザール」というコップの中だけである。

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2007年1月12日
高知新聞
混沌解く鍵
内田 樹
(神戸女学院大教授)

― posted by 大岩稔幸 at 04:18 pm

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