1970年11月25日、市谷の陸上自衛隊東部方面総監部を、「盾の会」4名とともに訪れた三島由紀夫が、バルコニーから演説を打った後、総監室で割腹自殺した。白昼、軍服のような服装で腰に手をやり演説をするテレビに映った三島を、私は鮮明に覚えている。
この事件の数日前、三島が絵の具でいれずみを描いてもらい、記念写真を撮ったと、鴨川司郎が記している。
一方、飯沢匡は『サムライと刺青』の中で、いれずみを描いたこと自体を否定した。「三島の死から1ケ月も経ってからだろうか。横浜の大和田君から電話がかかって来た。
<あの人が死ぬ四、五日前でしたかね。あの人から電話がかかって来ましてね> そこまで聞いて私は、彼が刺青を彫ろうと考えたことをすぐ察した」「三島は<カメラマンの篠山紀信から紹介されたが、写真を撮るために私の体に刺青の図柄を絵付けして欲しい>
といったのだと大和田君が言った」と記している。
続けて、「だが、その彼の最後の快楽の跡とどめる裸体上には刺青の図はない。…大和田君が本業である荷揚作業の仕事が立て混んで、時間が合わなかったからである。
親切この上なしの好人物の大和田君は、京都の大映撮影所にいるやくざ映画で刺青の図をスターたちの体の上に描いている名手を推薦したのであったが、これも三島の方の撮影時間が切迫していて、ついに実現しなかったのである」と述べ、返す返すも残念だったとしている。
もし、いれずみが三島の皮膚に在ったとしたら、どんな図柄だったか。想像逞しくすると、それは白波五人男の弁天小僧だったかもしれない。
「あの浜松屋の場では弁天小僧が緋縮緬の長襦袢を捲くって尻を出し、大いに刺青を見せる芝居で、且て文士劇で三島もそれに扮した」ことを飯沢は指摘し、続けて「<青砥稿花紅彩画>というこの芝居では大詰になって弁天小僧は寺の屋根の上で多勢の捕手にとり囲まれて立腹を切って、まことに派手に打ち果てるのである」「三島もバルコニーで、衆人監視のなかで死を遂げなかったのかと思っている」と記している。
ちなみに飯沢は、三島の死をセックスと結びつけて考えている。そうか、弁天小僧ではない。きっと薔薇のいれずみにちがいない。ボディビルなどで肉体改造を行った三島が、細江英公に撮影してもらったヌード写真集『薔薇刑』がある。昭和30年から身体を鍛え始めた三島六年後の撮影である。
この撮影は三島にとって強烈な体験だったらしい。「細江英公序説」で三島は「或る日のこと細江英公氏がやって来て、私の肉体をふしぎな世界へ拉致し去った」と述べ、細江の「ほとんど狂人の目の光りを帯びていた」その眼で、完膚なきまでに三島は細江の作品と化した。
瞬きせず睨みつける三島の持つ薔薇刑「作品32」、あるいは「刺青のサロメ」を思わせる「菩薇刑作品29」などは、私にはいれずみに見えるのである。それは細江が彫り込んだいれずみである。
遡って昭和24年、24歳の三島が『仮面の告白』を書いている。「浅黒い整った顔立ちの若者‥…腋裔のくびれからはみだした黒い叢が、日差しをうけて金いろに縮れて光った。これを見たとき、わけてもその引締まった腕にある牡丹の刺青を見たときに、私は情欲に襲われた」とある。
倒錯した性といれずみ、引締まった筋肉への憧れ、「三島の作家活動は、実質的にはほとんどすべての期間にわたって肉体の鍛錬とともにあった」と谷川渥が指摘している。
それは切腹を描写した小説『憂国』へつながり、ついには自身の割腹へと終結した。ちなみに、飯沢がいれずみを「ミニ切腹」と呼んでいるのは、実に暗示的である。
彼は「私は刺青の世界を覗くようになって、このマゾヒズムと切腹の関係に気づいたのだ。…刺青の苦痛と出血に耐えるということは…」と述べている。
さらに松田修は「存在としての肉身の上に、今一つ重ねられた存在の確実さこそが、刺青なのである。その根源にひそむ素材としての肉身への自虐的フティシズムを忘れることは、まったく不当である」と。
三島がいれずみをしたいと願っていたのは事実であろう。
それはすでに『午後の曳航』で、13歳の登をして「硬い心を自慢にしていたから、夢の中でさえ泣いたことがなかった。海の腐食に抗し、船底をあのように悩ます富士壷や牡蠣とも無縁に、いつも磨かれた身を冷然と、港の泥土の、空瓶やゴム製品や古靴や歯の欠けた赤い櫛やビールの口金などの堆積の中へ沈める、大きな鉄の錨のように硬い心。…彼はいつか自分の心臓の上に、錨の刺青をしたいと望んでいた」と言わせている。
仲間の首領に命令され、登は材木で猫を殺す。その猫を首領が捌く。登は「皮を剥がれた目の前に見える内臓の動きで、もっとひりひりと直接に世界の核心に接し」、それが昨夜、隣の部屋の隙間から垣間見た男と母の、あれ以上はないあらわな姿と比べても、こんなに奥深くまでしみ込んではいかなかったのである。そして「心嚢を引っ張り出し、そこから可愛らしい楕円形の心臓をつまみ出し」首領は「それにしても血を見ると、何で気分がせいせいするんだろう!」と言ってのける。まさに今日的な事件を予感している。
『金閣寺』で、「内側と外側、たとえば人間を薔薇の花のやうに内も外もないものとして眺めること、この考へがどうして非人間的に見えてくるのであらうか? 若し人間がその精神の内側と肉体の内側を菩薇の花弁のやうに、しなやかに翻へし、捲き返して、日光やさつきの微風にさらすことができたとしたら」と主人公に語らせている。
苦悩に満ちて硬くなった今日の子供たちの心臓の、そこに彫られたいれずみは彼らの精神の内側をひっくり返して覗かない限り理解できない。
加えて、三島には『複雑な彼』といういれずみが重要な役割を担う小説がある。国際線ジェット機の1等で、金釦の制服で、男らしくてきばきと、しかし優雅な動作で、酒の注文をきき、給仕するスチュワードの背中に惚れた乗客冴子がいる。惚れられたその男譲二、その譲二と恋愛、そして結婚の決意をした冴子が、彼の決断が見えず、ついに彼のアパートを訪ねる。そこに譲二は見知らぬ男といた。
「<どうだい。君がこのお嬢さんにどうしても結婚を申し込む勇気のなかった原因をお目にかけちゃあ。いつまでも謎のままにしておくことはない。君は沖仲士をやめてから、ぶらぶらしているうちに、若気のいたりで、そんなものを背負い込んだんだ。君はそれほど恥ずかしく思っていても、ただ黙っていては、君のその気持ちは人には通じない。思い切って見せてしまえば、吹っ切れるぜ。どうだね> …冴子は譲二が立上がり、目の前へ背を向けるのを見た。
譲二はなお、何かためらって、そのままの姿勢でうつむいていた。そこで冴子の目の前には、はじめて彼を見たときと同じ、ひろい巨大な背中があった。…譲二の手が動いてワイシャツの釦を外しているらしかった。…突然、純白の幕が切って落とされたように、譲二のワイシャツが大まかに、さっと脱ぎ捨てられた。
冴子は息を呑んだ。その背中いちめんにあらわれているのは、みごとな刺青だった。絵柄は何というのか知らないが、両脇には様式的な波が躍り、そこを錦絵風な顔だちの達しい男が波を切って泳いでいて、その男の背にも、昇り竜降り竜の刺青が彫られ、ぎっしりとつまった波の紋様がその男の下半身を没していた。実に見事な、圧倒的な、いやらしいほど鮮明な朱と青の画像であった。冴子は目がくらくらして倒れそうになった」
この譲二の背中のいれずみの露顕は、日本人の男性のいれずみの本質、すなわち、松田の言う「刺青は本来かくされ、覆われていなければならないのだ。あらわな刺青とは矛盾概念なのだ。浜松屋のあの一見長々とした導入部は、かくされたものとしての刺青が、顕われる一瞬の重さへの補償なのだ」を表現して余りない。
三島由紀夫は「鬼面人を驚かすようなことがしたい」(『週刊朝日』創刊五十年記念号)という反面、「葉隠れ」の謙抑を好んだ(飯沢)が、それは、まさにいれずみの持つ矛盾である。
いれずみ物語
小野 友道(熊本保健科学大学・副学長)
三島由紀夫のいれずみ
薔薇か錨か、弁天小僧か
主要文献
1)飯沢匡:サムライと刺青、『飯沢匡刺青小説集』、立風書房、1972.
2)鴨川司郎:刺青と文学『増補普及版 日本刺青芸術・彫芳』 (有) 人間の科学新社、2002.
3)新潮文庫:『文豪ナビ三島由紀夫』、新潮社、2004.
4)谷川 渥:三島由紀夫とバロック美術、国文学、45;60、2000.
5)谷川渥:『文学の皮膚 ホモエステテイクス』、白水社、1996.
6)種田和加子:『アポロの杯』一流血の聖セバスチャン国文学、45; 46、2000.
7)『日本の写真家32細江英公』岩波書店、1998.
8)松山修:『刺青・性・死』逆光の日本美−、平凡社、1972
9)三島由紀夫:『複雑な彼』、集英社、1987.
10)三島由紀夫:『日本の文学69三島由紀夫』、中央公論社、1965
11)三島由紀夫:『決定版三島由紀夫全集32』、新潮社、2003.
12)同上、39、2004.
大塚薬報
2007/No.622
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