男の背中

Backside022

男の背中の重要性については、古代人たちもとうから気づいていたらしい。

中世ゲルマン民族の『イーリアス』といわれる『ニーベルンゲンの歌』は、じつは背中の悲劇である。英雄ジークフリートは悪竜を退治したその血を浴びて不死身となったが、血を浴びたさい、背中の一か所に落葉がはりついていて、そこが急所となった。

ジークフリートの妻クリエムヒルトは狩りに出る夫を思うあまり、同行の自分の一族のハゲネに夫を守ってもらうために急所を教えた。ハゲネはジークフリートが自分のほうに背中を向けて泉の水を飲んでいるすきに、槍を取って急所を刺した。
                      
ジークフリートの死を知ったクリエムヒルトは夫の仇を倒すために民族の敵であるフン族の大王に嫁ぎ、ハゲネを含む自分の一族をフン族もろとも滅ばし、自分も殺されてしまう。

このようにも激しいクリエムヒルトの夫に対する愛は、夫が槍の穂先の致命傷を受けたのが背中であったことによって、大きな説得力を得ている。

ハゲネとともに狩りに出る夫にクリエムヒルトは上着を着せかけてやったろうが、その上着の背中には彼女みずからが縫い取りした十字のしるしがあった。ハゲネに守ってもらおうとてつけたそのしるしを、彼女の指は何度もいとおしさをこめて愛撫したことだろう。

愛する夫の不慮の死を聞いたとき、クリエムヒルトの目に最初にちらついたのは、夫の背中であったにちがいない。彼女は自分が見送った夫の背中を思い、その背中にするどい槍が突き刺されて夫が後ろ向きに絶叫するさまを思ったであろう。
                               
記憶の中の夫の背中を見たとき、彼女は夫の名を呼ぶかわりに、復讐を誓ったのである。

こんな悲劇的エピソードを持つ背中について、私は最近、興味ある話を聞いた。話をしてくれたのは、さる指圧の先生である。

先生のいうところによると、中国古代に黄河流域でまとめられた医学の古典で、鍼灸指圧の聖典とされている『黄帝内経(こうていだいけい)』というむずかしい本によると、人間の背中は陰陽五行説のいわゆる陽だという。

これに対して前面は陰である。その証拠に同じだけ太陽にさらしても、背中のほうが早く灼ける。しかし、おもしろいことに、陰のツポはすべて陽である背中にある。
           
だから、お腹の中の五臓六腑の疾患をなおすのに背中に灸をすえ、鍼を刺し、指圧をするのだそうである。

これに、プラトーンの『饗宴』にある、かつて人間は男女が背中あわせにくっついた球体だったが、あまりに倣慢だったため、神々の怒りを買って背中から断ち切られ、べつべつに追放されたという例のplatonic love 説を持ってくれば、肉体的(フィジカル)と精神的(メタフィジカル)と二つの根拠がそろって、背中の悲しみの理由が明らかになる。

しかし、この万感こもごもなる背中、なぜ男の背中でなければならないか。

陰陽五行説をもう一度持ち出して、男はもともと陽の存在だから陽の背中にその内面が集中的に現れるのだといえば『黄帝内経』の著者にあまりのこじつけと叱られようか。

男が背中を向けているだけで、そのこちらむきの背中には男の万感ことごとく集中して、その背中には顔以上の表情がある



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― posted by 大岩稔幸 at 01:42 am commentComment [1]

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