ビンラディン殺害

ビンラディンが殺されたそうである。 
            2011.05.01
たぶん時代はもうこいつのような革命者ないし独裁者をもはや必要とはしていないのだろう。

道化としての役目が終わったので時代から排除された、ということになろうか。

この世界における革命の担い手は既に人間からイデオロギー、イデオロギーから富、富から技術革新に移っており、その移行段階に応じてより人間の関与の度合いは薄れていく。

そして先の福島原発事故に見られるように、文明における革命の果てには、自然に拠るカタストロフィが待ち受けていて、児戯のような人類の営みはすべて否定される。

それはたぶん、文明が目指す革命の方向性と、自然の秩序が望む方向性に、大きな、両立不可能な矛盾があったせいなのであろう。
であるなら、否定されるべきはビンラディンだけに留まらない。

別の思惑あるがゆえにこの馬鹿なイスラム教徒を否定した側も、自身の在り方と自然の秩序のあり方との間にある矛盾を回避できない限り、いずれほどなく否定される運命にある。

敵と味方が、じつはどちらもドミノ倒しの駒に過ぎず、順繰りの運命を続けており、最後はどちらも無知ゆえに滅びるというのは、なかなか滑稽で面白い気がする。

まあ今、この時代に起きている事に関して、大まかに言えることはこれだけだ。


さて、話は唐突に翔ぶが、自然というものは自身が恒久に在ることを望むものである。

(自然の秩序に背いた人もまた永遠にあることを望む。ただ自然が恒久を成し遂げる方法と、人間が永遠を得ようとして行う方法は、根本的に真逆になっている。だから自然と人は互いに排斥しあう。)

そこには一見して何か新しいものが生まれ古いものが消えて行くように見えるけれど、注意深く見れば、実際には何も新しいものが生じているわけでも古いものが滅しているわけでもなく、ただ要素が形や構造を変え循環しているだけなのだということが理解される。

つまり全体として永久に存在しようとするものは、自らに定まった形や構造だけを望む一方向だけへの盲目的な流れを持たず、不定形のまま永遠の循環を繰り返すことを望む。

高い場所のものは低い場所に謙り、低い場所のものは高い場所に移り変わり、大きなものは小さく分かたれ、小さなものは大きくまとまり、単純なものは複雑な構造を作り、複雑な構造なものは単純な構造のものへ転化する。

持てる者は持たざる者に与え、与えられた者は受け取った物を保ち生かし、さらに全体へ還元する。

一切の存在が一刹那も同じ形を留めないがゆえに、全体としてなお永遠でありえる。

存在というものに自我が微塵もないゆえに、そこには滅びるということが決して訪れない。

しかし愚かな一神教の類を奉じる者たち、あるいは神を金と置き換えたような現代の神学的イデオロギーを信奉する者たちには、このような理は理解しづらい。

それは彼らが自分たちの存在に関する懐疑を成し得ない程度の、生まれつきの馬鹿だからである。

彼らには自分という存在を理解する能力はない。自身を成立させている自然の理を考察する能力や天禀はない。

だから彼らはいつも真実を逆さまに捉え、それゆえに目指す事全てにおいて、自然の道理との齟齬を来す。
故に彼らは滅びを避け得ない。

たとえば、一切の生じているものは必ず滅する。

それは何かがここに生じているという現象が、それ自身に内包する原因によって起きているものではなく、自身以外の要因(因)と条件(縁)に依って、見かけ上引き起こされ顕現している現象にすぎないからである。

このことに例外はない。

何かが在るということも同じである。

それはたしかにここに存在しているのではなく、ただここに在ると、見かけ上存在していると観測できるものであるに過ぎない。

(一応観測という、何か認識主体の存在を思わせる言葉のニュアンスを説明するが、これは存在すると見なされうる現象同士において、相互干渉が可能なことを意味しているにすぎない。)

さらに言えば、見かけ上在ると認められるに過ぎないものと、同様に見かけ上在ると認めれれるに過ぎない物同士の間に、これらはいずれも見かけ上仮初に存在性を認めうるものであるに過ぎないにもかかわらず、なお相互干渉作用を観測できる。

言い換えるなら、存在ではない現象Aと現象Bとの間で、何らかの相互干渉の現象Cが起きることが観測できる。
そしてこの場合、Cは存在Aと存在Bを原因として、その合するところに生じた存在だと見なされる。

つまり存在でないもの、見かけ上ここに在ると見なされうる現象に過ぎないものが、なお他の存在とみなしうるものの原因や条件となり得る。

これは私たちの観ている現実が、幾重にも重なった細かい網の目のような構造で、存在性ないし現実性というものを辛うじて掬いとっているものであるということを意味している。

あるいは観測者同士(相互干渉が可能なゆえに互いを存在するとみなしうる現象同士)の錯覚(相互作用)の積み重なりが、唯一の現実の根拠となっている。

(ここで観測者、ないし錯覚という表現に、認識主体の存在を妄想するべきではない。)

存在とみなしうるものは、単に他の存在とみなしうるものとの相互干渉作用が可能な時点で観測者と呼ばれているだけのことでしかなく、その相互干渉作用なるものが実際は存在していないということを理解し得ないゆえに、錯覚していると言い得るからである。

つまり認識主体たるべき心の主、たとえばアートマンが実際にはどこにもないゆえに、錯覚からの作用をなお存在を錯覚された自身も受けうるのである。

言い換えるなら観測者=錯覚に存在を認めざるをえない、自身も他の現象から存在と見なされる現象の一つなのである。

逆にもし、これが自己の存在性、世界の存在性、その相互作用の存在、すべてを否定できるなら、つまり自身は何等の相互干渉のうちにもなく、なおかつ宇宙の構造全てを如実に観じることができるのなら、これは一切である主体、すなわちブラフマンと呼ばれるべきであろう。

しかしてそれは別名、寂静、永遠に沈黙する光の叡智なのであり、こちらから言えば認識作用が止滅した状態なのであり、つまり私たちには肯定しようのない心のあり方であり、ゆえに不可知なのである。

さらに続ければ、一切は真実には存在しておらず、存在していないという事は実際には生じていないということであり、生じていないということは、決して滅する可能性もないということを意味する。

(他の存在と見なされうる現象から)存在と見なされうる全ての現象は、はすべて自身を仮初の存在として構成した、直近の原因と条件に因数分解できる。

その直近の原因もまた存在ではなく現象に過ぎず、条件はそれら現象の相互作用をいうにすぎない。
故に原因もまた、さらに他の原因と条件に因数分解できる。

以下、その無限の繰り返しを辿っていくとする。

無論、どこにも最初の原因となった存在ないしそれらが創りだす最初の条件というものは見つからない。
おそらくはどこまで循環し、いくつものループ構造が存在している。

一つのループ構造が別のループ構造に連なり、完全に閉じていない輪ゴムで編まれた網のような全体像がある。
一つのループの始まりは別のループの終端で、一つのループの終端は別のループの始端で、それがグルグルと連関している。
その全体像を遠くから離れてみると、点に見える。

点の近くによれば網の目のような構造が見え、もっと近くによれば完全に輪として閉じていない輪ゴムのようなものが見え、輪ゴムの中に入ると、原因めいた物、原因が織り成す条件めいた物、それらによって生じた結果たる存在めいたもの、が無数に見え、そこに一応の時間の流れらしきものが認識される。

さらにある特定の存在らしきものと同じレベルにまで降りていくと、その存在らしきものと自身の相互干渉が起きることを感覚できる。
ここであらゆる現象は、自分の存在と相互に干渉いあえるがゆえに、自分にとって存在であると認識される。

あるいは存在らしきものと相互干渉を持っていると感覚されるがゆえに自分自身がここに存在しているという認識が成り立つ。
これがアートマン、自我というものの仕組みである。

それは認識する主体なきゆえに認識対象の存在を錯覚するという際限ない虚妄をこそ本質とする。

自我はただ錯覚された認識対象の存在を根拠とし、その反射として錯覚されているにすぎない。
例えるならそれはまるで胡蝶の夢のようである。


・「胡蝶の夢」(こちょうのゆめ)
中国の戦国時代の宋国(現在の河南省)に産まれた思想家で、道教の始祖の一人とされる人物である荘子による説話である。荘子の考えが顕著に表れている説話として、またその代表作として一般的にもよく知られている。

【原文】
昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。
自喩適志与。不知周也。俄然覚、則??然周也。
不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
【書き下し文】
昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち?々然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。

意図 【訳文】
以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。

                     (ウィキペディア)

荘子の考察にさらに付け加える。

もし自分が荘周であるなら、荘周としてあるこの世界が現実である。
逆に胡蝶であるなら、胡蝶としてあったあの世界が現実である。

現実は二つあるはずがないので、どちらかが真実でどちらかが真実ではないはずである。

しかしその判断を主体として決定できる自身に唯一性が担保されていないので、この問題は判断不可能である。

あるいはどちらの世界も真実ではないのだとすれば、現実は存在しておらず、その現実に住している荘周も胡蝶も存在していないということになる。

その場合、自身を荘周である、あるいは胡蝶であると認識する主体=自我そのものが、世界の真実性ないし現実性という裏付けを持たず、裏付けを持たないがゆえに、自分が存在するということを何人に対しても主張も立証もしえないということがありえるのなら、自身はこの世界に決して生じていないのであり、故にこの世界(がありえるとしてなお)と没交渉なのであり、つまりこの世界に対する認識のすべて(この世界が真にここにあるのかどうかも含め)が虚妄なのであるという結論に至る。

だからいかなる自我であれ、自身が存在することを主張するためには、世界の存在を無条件に肯定する以外なくなる。

しかしいかなる自我もまた存在し得ないということを確かに肯定するのであれば、世界を虚妄であると理解することこそが真実の叡智なのであるという結論に至る。

ゆえに一切知はアートマンを否定するところにのみ、存在しうる。

世界の存在を前提にしてしかありえないアートマンの実在を根拠とする一切の教えは、人の迷妄を深くし、知恵とは逆の暗闇に人を追いやるしかない。
そのような教えに耽溺するものを救うすべはないし救う必要もない。

彼らはただ自分は在ると信じるがゆえに永遠の覚めない夢から出られなくなっているのだが、実際には彼らはどこにも一度として生じたことがある存在ではない。

あれは夢が見ている自分と言う名の別の夢なのである。

どこまでも中身のないマトリョーシカのような虚ろな現象に過ぎない。

だから「そんなマトリョーシカは見ていない」と言い切れば、それで片付ければ、すべて済む話ではある。


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― posted by 大岩稔幸 at 10:23 pm

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