メメント・モリ

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 “メメント・モリ”という数年前から大事にしているラテン語がある。意味は『死を想え』。ちなみに上の写真は藤原新也のメメント・モリという写真集の中にある一枚である。私達は毎日飯を食べて仕事や趣味や勉強をし、そして眠りまた朝起きる。親戚や祖父母の死に接したりして何となくいつかは自分も死ぬという事を解っているつもりでも、やはり何処かで『まだ何十年も生きれる』という前提で毎日を過ごしている気がする。ルーティン化した生活がいつまでも続き、何となく“平均寿命”という曖昧な所まで生きれるのではないかという奇妙な認識が生活を覆ってるのだ。しかし、平均寿命というのはあくまで多数の他者達の平均であって自分がその程度に生きれる事を保障しているのではない。
 ルーティンは同じ時間が二度とは戻ってこないという単純な事実を人々から忘れさせ、そしてその結果“死”を何処か遠くに追いやってしまう。日常に自分を埋没させて生きる事。そこには、とある拍子に明日にでも死んでしまうという可能性が抜け落ちている。偶然性やら未規定性の認識が欠けているのだ。
 “今”が続くと考える事は時間の一回性の価値を濁らせてしまう。実はこの瞬間もゆっくりと、しかし確実に死に向かっている。同じ瞬間は絶対に戻ってこない。時間は直線的に進み、生まれた瞬間から死へのカウントダウンは始まっているのだ。日々私達は死んでいる。そう考えるとこの瞬間が生き生きと見えてくるのではないだろうか。同じ人といても、同じ場所にいてもそれは以前とは徹頭徹尾違う時間なのだ。
 死を想うという事は人間に“有限性”を再認識させる。“死”というモノがリアリティを与えないのならば、なんでも小さな区切りとして、物事の“終わり”を意識してみればいい。例えば卒業、恋人との別れ、20代の終わり、退職。何か自分にとってリアリティのある終わりを意識する事で今見えてる景色が切実なものとして自分に迫ってくるだろう。腐れ縁の昔から変わらぬ仲間と同じ飲み屋にいても、長年付き合った同じ恋人と以前と同じ公園で手を繋いでたとしても、それはきっと本当は物足りない事ではないのかもしれない。その目の前にいる他者と全く同じ時間を全く同じ気持ちや自分で共有する事はもう二度と不可能なのだ。そう考えると、彼等の表情、言葉、仕草、体温、周囲の景色、その全てが本当に本当に大切なモノであるとわかる。少なくとも自分はこの言葉を意識してからは、身体や精神がルーティン化されている時があっても
、時々日常という地面から顔を出して“今”のありがたみを以前より感じる事ができるようになったと思う。
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― posted by 大岩稔幸 at 10:55 pm

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