血も涙もない判決

76

 中国残留孤児が国に対する賠償請求を求めた裁判で、東京地裁は全面的に原告側の主張を否定し、棄却した。原告たちが、血も涙もないこの非情な判決に、怒り、恨み、失望したのは当然である。

 原告たちが、まだ幼い時、中国に渡り、敗戦に遭ったのは、彼等に何の責任もない。戦争がなければ、彼等の両親は中国へ渡らなかったし、敗戦の引揚の時、彼等を捨てて自分だけで帰国したりはしなかった筈だ。彼等は文字通り、運命に翻弄されて生きてきた。

 辛い運命にさらされた時、その運命を理解し、闘う力も智慧もない幼子だった。原告者たちの年齢は60代のはじめから60代後半までである。終戦の年生れた赤ん坊が、62歳の原告になっている。

 私は北京で終戦を迎えた時、23歳だった。前年8月に生れた娘をかかえていた。娘はまだ歩くことも出来ず這い廻っていた。夫は終戦の年の6月現地召集されて、どこにいるのかさえわからなかった。

 満1歳の娘を何としてでも日本に連れ帰らなければならぬという想いだけで、私は生きていた。中国人に殺されても仕方がないと脅えていた。私は自分の目で、北京に於ける日本人たちの中国人に対する横暴、虐待を見てきていたからだ。

 もし、あの時、私が満州にいて、ソ連人の襲撃に遭っていたらどうだろう。私の叔父の一家はハルビンにいて、子供たちは、まだみな幼なかった。私は夫のいない北京の家で、子供を背負い、歩いてでも肉親のいるハルビンに行こうかと真叙に思いつめたりしていた。

 あの時、もしハルビン行を決行していたら今の私はいないし、娘は、残留孤児になっていただろう。

 人間とは情けない動物で、自分の経験していないことに対しては、まことに想像力が乏しいのである。自分の愛する人と死別して、はじめて同じ境遇の人の辛さや悲しみを理解出来るのだ。自分が失恋してみて、失恋のため正常な判断力を失ってしまった人の苦悩が察しられるのだ。

 貧乏したことのない人間には、10円の銭さえ拾いたい貧しい人のみじめさがわからない。

 私たち、戦争の時代を生き、戦争の実態とその虚しさを経験したものが、いくら話しても、戦後生れの人たちに、それを自分と同じようには感じさせられない。それでも人間には想像力の可能性が与えられている。

 残留孤児の苦労を、帰国後の生活の苦しさを、彼等と同じにはわからないまでも、私たちは、自分を人間と思っているなら、想像力をふるいたて、駆使して、彼等の辛さ、苦しさ、心のひもじさを理解しようと努力すべきであろう。

 判決文を読み、こういう判決文の書ける人の想像力のなさに恐怖と絶望を覚え、身も心も震えあがった。



2007年2月10日
高知新聞夕刊 
灯点(ひともし)
瀬戸内 寂聴(作家)

― posted by 大岩稔幸 at 11:15 am

菓子屋とそば

penitente


古い時代には、そば打ちが菓子屋の仕事であったことは、案外知られていないのではないだろうか。なぜ菓子屋の仕事になったかといえば、菓子屋には、粉を扱う技術と道具がそろっていたからである。

貞享3年(1686)の記録では、京都で、虎屋、ニロ屋といった菓子屋がそばも打っていた。また、同じ貞享3刊行の井原西鶴『好色一代女』に、「川口屋のむしそば」とある川口屋は、大坂伏見町にあった有名な菓子屋であったという。

江戸でも、江戸中期までは菓子屋がそばを打っていた。これらの菓子屋のうち、虎屋だけは維新の遷都とともに東京に本拠を移し、現在も盛業中だが、もちろん、そばを打っていたのは、江戸時代までの話である。

ところが、京都には今でも、そば屋兼菓子屋の老舗が2軒ある。本家尾張屋と、晦庵河道屋だ。

本家尾張屋の菓子屋としての創業は、室町時代の寛正6年(1465)と古い。現在、この店では、そば屋を営む傍ら、「そば餅」と「そば板」というそば粉を用いた銘菓を販売している。そばは、そば切りが現れる以前の「そばがき」時代から扱っていて、江戸時代には宮中の御用蕎麦司もつとめていた。

河道屋は現在、経営は同じだが、そばの部門が晦庵河道屋、菓子の部門は総本家河道屋と分かれている。創業は元禄のころ。菓子はそば粉を用いた「蕎麦ほうる」一種類だけだが、この菓子、類似品がたくさん現れて、正式名称よりも通りのいい「そばぼうろ」と呼ばれることが多い。

毎年5月には比叡山で桓武天皇の御講が催されるが、河道屋にはその際、当主が必ず登山してそばを打つならわしがある。そのため現当主の植田貢太郎さんも、菓子の方ではなく、まずそば打ちを仕込まれたという。

ところで、本家尾張屋や河道屋が伝える話で興味深いのは、いずれもそばは、京都の富裕層、特に僧侶や公家の注文を賜って打っていた、ということである。

一方で、そば切りは庶民しか食べなかったものを、だんだん上流階級が食べるようになった、という説が根強いが、京都では明らかに違う。むしろ、そば切りは製粉と打つ技術がいるために高くつき、はじめ上流階級しか食べられなかったのではないか。

河道屋先々代当主植田貢三さんが、古文書のそば関連の記事を集めて刊行した『蕎麦志』のなかに、江戸初期の歌人冷泉為久が、法皇御所でそば切りを頂戴したときの和歌が紹介されていた。

くれ竹の ふしのまさへも君かそは
きりへたつとも ゑだそはなれめ

くれ竹の節ほどの僅かな間であっても、君のそばをきり(蕎麦切りにかけている)離そうとしても、枝は離れぬであろう、といった意味だ。そば切りを用いて、一首の恋歌を仕立てている。

この記録ひとつをとってみても、そば切りが庶民の日常の食べ物でなかったことは明白である。

大塚薬報
2007/No.622

大森 周

― posted by 大岩稔幸 at 12:41 am commentComment [1]

<< 2007.2 >>
SMTWTFS
    123
456789 10
11 12 13 1415 1617
18192021222324
25 26 2728   
 

T: Y: ALL: Online:
ThemeSwitch
Created in 0.0134 sec.