一部閉鎖のお知らせ

いつも当ホームページを御覧いただきありがとうございます。
 
度々のことで申し訳ありませんが、暫くの間、再度のリニューアル作業も兼ねてホームページを一部閉鎖という形を取らせていただきます。
 
なるべく早く作業を終えて再開させたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。

― posted by 管理人 at 12:02 am

食の安全性

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中国の「食の安全」をめぐるニュースに「うーむ」と考え込む。こと「食」に関してこの国は、世界一とも言える伝統と文化を誇ってきたのではなかったか、と。

「食は広州にあり」などという多様な地域性、絢爛(けんらん)豪華な満漢全席から市場に並ぶゲテモノまで、その豊かさ、奥深さは古今東西の健啖家(けんたんか)をうならせてきた。例えば作家の檀一雄は、町の小路に並ぶ「粗末な食堂か点心屋の一品」さえも「一筋縄の調理や味覚ではゆかぬ」と書いた(「美味放浪記」中公文庫)。

せいろに並んだ包子(パオズ)をパクリとほおばると、ジュワーッとスープが口中にしみ出る。スープは煮こごり状にして、粉皮に包み込んでおき、それを蒸し上げていた。現代の日本のグルメ番組にも出てきそうな点心だろう。

段ボール紙入りの肉まんとの何たる落差か、と驚いていたら続きがあった。問題を報じた中国のテレビ局が「やらせ」を認めて謝罪した。段ボール肉まんは「うそだったからよかった」とならないのが怖いところで、こうなると何を信じていいのか分からなくなる。

中国政府も、問題のある輸出企業のブラックリストを公表したりして、信頼回復に躍起だ。温家宝首相も河野衆院議長に安全の強化を表明した。しかし、北京五輪を一年後に控え、国の体裁を一番に考えているようにも見える。

偽装牛肉や食のやらせ番組を出して偉そうには言えないが、土台からの改革が必要だろう。「食は中国にあり」と国民が誇りと自信を持って働く、そんな国づくりだ。

食肉加工販売会社「ミートホープ」の田中稔社長が同社の自己破産を札幌地裁苫小牧支部に申請した。負債総額は約六億七千万円に上る。

取引先から商品の返品や取引中止が相次いだ上、取引先の食品会社から多額の損害賠償を求められ、事業継続が困難となった。系列会社の飲食店などへの影響も懸念される。

豚肉などを混ぜたひき肉を「牛ミンチ」として出荷していた問題に端を発した同社の偽装は、産地偽装、賞味期限の改ざんなど底無しの様相となった。農水省の立ち入り検査の結果、不正は約二十四年前から始まり、十以上の手口が大掛かりに行われていたことが分かった。

「食の安全」を揺るがせ、行政のチェック機能に対する不信を招き、約七十人の従業員は唐突に解雇を言い渡された。消費者や従業員をないがしろにし、利潤のみを追求する一人の経営者が残した「負の遺産」はあまりにも大きい。

なぜ、これほど長い間不正がまかり通ったのか。田中社長は偽装の指示に従わなかった工場長を、社員が整列する前で「もっと頭を使え、ばか野郎」とののしっていたという。

年間売上額十六億五千万円の同社は、地元北海道苫小牧市の有力企業であり、貴重な雇用の場だった。経営者という圧倒的な力を盾にした部下への「パワーハラスメント」が横行し、もの言えぬ雰囲気がまん延していたことも、不正が長期化する要因になったと想像できる。

それだけに、内部告発を受けながら、北海道との連携不足で放置してきた農水省の責任は重い。

農水省は日本農林規格(JAS)法に基づく食品表示義務の適用対象を、卸売りなど業者間の取引にも広げることを検討する初会合を開いた。

表示義務は消費者へ販売する小売店などに限られ、対象外だと多くの業者を経由するうちに原材料を確認しづらくなる傾向があった。品質管理の徹底を促すことで、食への信頼を回復させたいという狙いがある。

それにはあくまでも表示に不正がないことが前提となる。表示が本来の信頼の証しとなるには、偽装業者により重い罰則を科したり、第三者による立ち入り調査など、厳しい姿勢が求められよう。

消費者は表示に裏切られ続けてきた。失った信頼を回復するために、業界、行政は不正根絶を誓うことから出発しなければならない。消費者をだまし続けられる時代ではない。

― posted by 大岩稔幸 at 09:48 am

医療と介護

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年金問題に隠れる形で、同じ社会保障制度の枠内にあるにもかかわらず、医療・介護問題が隅に追いやられているのが気に掛かる。

いずれも財政再建という錦の御旗のもと、医療費抑制、介護給付抑制を強いられている。その一方で、質の高いサービスを求められ、医療・介護現場は混乱している。

安心感ある社会保障制度を維持していくには長期的視野に立った財政戦略が欠かせない。新たな国民負担にも触れるテーマではあるが、避けて通るわけにはいかない。

介護保険制度は社会全体で介護を支えようとの理念のもとに始まったはずだ。にもかかわらず、膨張する介護給付を抑制するために、国は在宅介護重視へとあっさり政策転換した。介護報酬は改定され、在宅介護は中重度者への報酬アップの代わりに利用者が多い軽度は減額された。これによって、多くの訪問介護事業者の収益悪化を招くことになってしまったのだ。

収入が介護報酬に限られる事業者が経営努力できるとすれば人件費削減しか手はない。だが、人材流出、人手不足、サービス低下という悪循環を招く。それを防ぐには他に収入源を求めるか、利用者獲得に突き進むしかない。コムスンの不正請求はこうした事情と無縁でないだろう。

今後、核家族化や共働きに歯止めがかかるとは思えない。そんな状況下で在宅重視の医療・介護が機能するのか疑問だ。在宅介護は家族の誰かが介護を担当することが必要だ。それは貴重な労働力が介護に固定化され、介護費用を稼ぐ労働力を結果的に奪ってしまうことになる。

事業者にとっても施設介護で可能だった効率的な医療・介護サービス提供が厳しくなる。将来に禍根を残さないためにも、サービスを受ける側、提供する側の実態をいま一度把握し、互いに無理のない仕組みを考える必要があろう。

医療・介護現場での人材不足は深刻だ。医師不足は、偏在の問題として取り上げられていたが、人口千人当たりの医師数で日本は経済協力開発機構(OECD)加盟国の下位にあり、絶対数不足という認識に変化しつつある。

政府は地域によって医学部の定員増を認めたが、医師養成には長い時間が必要だ。半面、地方の小児科医、産科医不足には即効薬が求められている。医師養成という長期的取り組みと同時に、一定の強制力を伴った対策がなければ地方の医師不足解消は難しい。

当面の医師不足を克服する重要な鍵は出産などを機に離職した女性医師の復職支援策だろう。女性医師が働きやすい職場をつくれば、男性医師の負担も減るはずである。

昨年の診療報酬改定の結果、大病院が看護師を囲い込み、中小病院の看護師不足を招くという新たな問題も噴出している。介護職も低賃金による人材流出が止まらない。従事者の使命感に甘え、労働環境が改善されなければ医療・介護が現場から崩壊していくのは時間の問題だ。

だが、待遇改善には介護報酬、診療報酬の引き上げ、つまりは保険料の負担増に通じてしまう。昨年からの医療制度改革、介護保険料見直しで国民負担は増している。特に年金生活の高齢者は限界ぎりぎりだ。一方で、保険料未納者も増えているという現実もある。

医療・介護は誰もがかかわる問題だ。国、個人ともに厳しい財政の中、どう制度を再構築し、安心生活を確保するのか。各党には明確な改革ビジョンを示してもらいたい。

― posted by 大岩稔幸 at 10:23 pm commentComment [1]

性悪説と性善説

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「疑を以(も)って疑を決すれば決必ず当たらず」。性悪説を唱えた中国の荀子に、こんな言葉がある。あやふやな根拠に基づいて判断すると、結論もあやふやになってしまう、との意味だ。

地方でも始まった第三者委員会による「消えた年金」などの給付審査。荀子の言葉が脳裏をかすめることもあるが、判断の基本は「性善説に立つ」こと。人間は本来悪いことはしないという孟子の思想に倣い、「一応確からしい」ことが分かれば、年金給付が認められる。

性善説で思い浮かべるのは政治資金規正法。国民から選ばれた議員が道に外れたことをするはずがない、との前提に立っているから、概してきつい縛りは設けていない。政治団体の光熱水費、事務所費などの経常経費については、支出に領収書添付を義務付けていなかったのもこうした考えに基づいていた。

ところが…。架空の事務所費、ただの議員会館を事務所にしながらの多額の光熱水費、「ナントカ還元水」という釈明―安倍政権の閣僚から疑惑が次々に出ている。そして今、赤城農相の後援会組織をめぐり不自然な事務所費が指摘されている

先の国会では資金管理団体に限り、光熱水費などで一件五万円以上の支出があれば領収書添付を義務付けるよう規正法が改正された。これだと赤城農相の後援会組織などは対象外。規正法の基本は性善説との考えは根強いようだ。

年金問題で政治が国民に期待するのも性善説。万事めでたしのように見えてどこかしら腑(ふ)に落ちないものが残る。

― posted by 大岩稔幸 at 07:11 am

刎頸の交わり

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男の首について

男の友情の最もエロティックな表現は「刎頸の交わり」ではなかろうか。
           
男の首についての古来最も煽情的(エキセントリック)なエピソードは洗礼者ヨカナーソ(バブテズマのヨハネ)の首の話であろう。『マテオ聖福音書』のいうところによると、ユデアの太守へロデ・アンティパスは後妻へロディアスの連れ子サロメに舞いを所望し、その褒美にはなんでもやると約束した。

ちょうどそのとき、太守の牢にはヘロデとへロディアスの不倫の結婚をなじるヨカナーンがつながれていた。前々からヨカナーンのことをにがにがしく思っていたヘロディアスは娘を唆かして、褒美にヨカナーソの首を! といわしめた。

洗礼者を恐れていた優柔不断の太守は困惑したが、約束の手前しかたなく洗礼者の首を斬らせて盆にのせ、サロメに渡した。サロメは盆の上の首を母親のところに持って行った……

この簡潔な描写だと、ヨカナーン生首事件の首謀者は太守夫人へロディアスで、サロメは太守夫人の手に操られる操り人形にすぎない。これにまったく新しい解釈を施して一幕の耽美劇に仕立てあげたのが、イギリス世紀末の異才オスカー・ワイルドである。

ワイルドの『サロメ』によると、サロメは淫蕩で権高な母親の傀儡などではなくて、彼女じしんの発意で、かなえられなかった恋の意趣晴らしにヨカナーンの首を望んだことになっている。ワイルド得意のさわりの科白を聞いてみようか。

ああ! お前はその口にロづけさせてくれなかつたね、ヨカナーン。さあ! 今こそ、その口づけを……いいよ、ヨカナーン、このあたしは、まだ生きてゐるのだもの、でも、お前は、死んでしまつて、お前の首はもうあたしのものだもの。どうにでも出来るのだよ、あたしの気のすむやうに……ああ! ヨカナーン、ヨカナーン、お前ひとりなのだよ、あたしが恋した男は……ああ! あたしはたうとうお前の口に口づけしたよ、ヨカナーソ、お前のロに口づけしたよ。お前の唇はにがい味がする。血の味なのかい、これは?    (福田恒存訳)


このあと、サロメは激怒した太守の命により兵士たちの楯に押しつぶされて殺されてしまうが、この遂情直後の死は精神分析家たちのいう性と死の一致の格好の見本のように思われる。

ワイルドの『サロメ』には、のちにこれに触発されてできあがったオーブリー・ビンセント・ビアズリーのきわめて自由な挿し絵の連作がある。それぞれに題名があって、『舞姫の褒美』と題された一枚は盆の上のヨカナーンの首から紅い血(黒白を得意としたビアズリーの絵では黒い血だが)が滴っているが、このすぐあとにつづくと思われる『最高潮』と名付けられた一枚では、サロメの手につかまれたヨカナーンの首から白い血が垂れている。

ビアズリーがそこまで意図したかはいざ知らず、この白い血は情交のあとの滴る精液のように見える。このあと、情交の相手であるサロメが殺されるのだから、なおさらである。

生首を主題にした絵は本朝にも多いが、国芳の六十九次から芳年の残酷絵にいたるまで、生首を口にくわえ、あるいは手にひっさげているのは、いずれも女性ではなくて男性である。これは敵討ちという素材上の要請だともいえるが、サロメのばあいの異性愛的匂いに対して、同性愛的雰囲気をそこに感じとることもできる。

同性愛的という言葉が刺激的に過ぎるなら、汎性愛的(パン・エロティック)と言い換えてもよい。敵方の若き武将である木村長門守の頭髪に香をたきしめ、薄く化粧した首級を賞めた家康公の逸話は、戦国武将に一般的な汎性愛性の典型的な現われというべきだろう。

いったい、立てた手柄の証拠にと、自分が闘った当の相手の首級を持ち帰るという風習は、どんな心情に出たものだろうか。これをニューギネアやボルネオの首狩族さながらの蛮性ととる考えかたはかなり抜きがたいが、それは否定できないにしても、そこに同時にたったいままで自分と死力を尽くして闘った敵のいのちへの愛惜を見なければ、片手落ちでほあるまいか。乃木大将とスチッセル将軍ではないが、呼吸も通いあわんばかり、体熱も伝わりあわんばかりにたがいに体を接して死を賭して闘いあった敵同士は、微温的な友人同士よりもはるかに親しい間柄といえるかもしれないのだ。

いな、友人についても東洋には古来、刎頸の交わりという成語があって、水魚の交わりの類をはるかにひきはなしてエロティックである。

『史記』廉頗蘭相如伝(りんばれんしょうじょでん)に出るこの成語のもとの意味は、相手のためには自分の頸を刎ねられてもいいほどの親しい交わりということらしいが、字づらのみ見るかぎりではたがいに相手の頸を刎ねあう仲とも思える。また、相手のためには自分の頸を刎ねられてもいいということは、窮極的には相手に自分の頚を刎ねさせてもよいということになるであろう。逆にいえば、相手の頸を刎ねるがわは、頸を例ねるほどにも相手のことを愛しているともいえるのだ。

男の首のこのようなエロティシズムは、どこから来るのだろうか。男の首が上半身と下半身をつなぐつなぎ目という微妙な位置にあるからだといえば、たぶん怪訝な顔をされるであろう。上半身と下半身のつなぎ目なら、腰ないしは下腹部というのが、常識だろうからだ。

しかし、あえて奇をてらうようだが、ほんとうの意味での上半身とは頭部であり、下半身とは背部から下全体なのではなかろうか。

上半身、下半身というばあいの上下には、形而上、形而下の上下の気味が抜きがたく含まれているように思う。頭部も肉であることに変わりはないが、認識作用のほとんどが五感というかたちでここでおこなわれ、対他表現のほとんどが表情というかたちでここでおこなわれることを考えれば、頭部は胸部以下に比べてはるかに形而上的ということができよう。

「首を賭ける」、「首をやる」、「首を切る」などの首に集中した決定的な表現も、首という微妙な位置を考えれば、当然のこととも思われる。

形而上的なものほ形而下的なものを含むから、皿の上のヨカナーソの首はヨカナーンの男根のようにも見える。じじつ、情痴の果てに愛する男の男根を切りとった阿部定女とヨカナーンの首を褒美にと乞うたサロメと、二人の女性の心情はフロイト的にはきわめて近いといえる。

すくなくとも、切られた頭部をかきいだいたり、血まみれの男根を愛撫したりする女性は考えられても、それらのない胴体と女性の組み合わせは考えられまい。そして、さらにいえば、この切りとられた首のエロティシズムがほんとうにわかるのは、男性にとって異性たる女性ではなくて、同性である男性だと、私には思われる。

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― posted by 大岩稔幸 at 07:55 am commentComment [1]

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