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いじめ

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栃木の中学生自殺で東京高裁は、いじめを「阻止せず傍観した級友の卑怯(ひきょう)な態度もー因」と指摘し、江見弘武裁判長は判決で「卑怯」という言葉を使ったのが目に付いた。

「弱い者がいじめられていたら、身を挺してでも助けろ、見て見ぬふりをするな、卑怯者と言われるな」などと、最近は義侠心ということを教えなくなったし、また卑怯者という言葉も消失して久しい。

戦前の反動で帝国主義的侵略に結び付いたものを捨てたのはいいが、武士道というよいものまで捨ててしまった。軍国主義と武士道精神は違うのに…。

大勢で一人を制裁することは卑怯だ。だからダメというのは論理的に説明できるものではない。「ダメだからダメ」と大人が子どもに断固としてたたき込むべきであるが、そのような大人がいなくなった。

今や日本中が「勝ち馬に乗れ」となっている。強い集団に入って弱い者をやっつけて生き残るという知恵が常識のようになってしまった。大人の世界がいじめ社会になっている。中央が地方を、大企業が中小企業をと…。

新自由主義の経済体制自身が弱い者いじめになっている。みんな公平に闘うのだから、勝った方が全部取って何が悪いのかということなのであろう。世界中が今「公平」という言葉に酔っているようだが、私はそんなことは絶対に信用しない。

例えば小学6年生と1年生が“公平″に闘うなんてことを絶対許してはいけない。どうしても、というなら一年生にハンディを与えなければならない。

同じように地方、中小企業にはハンディが必要である。ハンディなしに公平に闘うというのは、実は不公平なことである。

数学者でエッセイストである藤原正彦著「国家の品格」は金権が横行し、羞恥(しゅうち)心を失った日本社会に「品格」という言葉を投げ込み、衝撃を与え、大ベストセラーになった。そして「品格」は06年の流行語大賞となった。

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― posted by 大岩稔幸 at 11:29 pm

男の背中

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男の背中の重要性については、古代人たちもとうから気づいていたらしい。

中世ゲルマン民族の『イーリアス』といわれる『ニーベルンゲンの歌』は、じつは背中の悲劇である。英雄ジークフリートは悪竜を退治したその血を浴びて不死身となったが、血を浴びたさい、背中の一か所に落葉がはりついていて、そこが急所となった。

ジークフリートの妻クリエムヒルトは狩りに出る夫を思うあまり、同行の自分の一族のハゲネに夫を守ってもらうために急所を教えた。ハゲネはジークフリートが自分のほうに背中を向けて泉の水を飲んでいるすきに、槍を取って急所を刺した。
                      
ジークフリートの死を知ったクリエムヒルトは夫の仇を倒すために民族の敵であるフン族の大王に嫁ぎ、ハゲネを含む自分の一族をフン族もろとも滅ばし、自分も殺されてしまう。

このようにも激しいクリエムヒルトの夫に対する愛は、夫が槍の穂先の致命傷を受けたのが背中であったことによって、大きな説得力を得ている。

ハゲネとともに狩りに出る夫にクリエムヒルトは上着を着せかけてやったろうが、その上着の背中には彼女みずからが縫い取りした十字のしるしがあった。ハゲネに守ってもらおうとてつけたそのしるしを、彼女の指は何度もいとおしさをこめて愛撫したことだろう。

愛する夫の不慮の死を聞いたとき、クリエムヒルトの目に最初にちらついたのは、夫の背中であったにちがいない。彼女は自分が見送った夫の背中を思い、その背中にするどい槍が突き刺されて夫が後ろ向きに絶叫するさまを思ったであろう。
                               
記憶の中の夫の背中を見たとき、彼女は夫の名を呼ぶかわりに、復讐を誓ったのである。

こんな悲劇的エピソードを持つ背中について、私は最近、興味ある話を聞いた。話をしてくれたのは、さる指圧の先生である。

先生のいうところによると、中国古代に黄河流域でまとめられた医学の古典で、鍼灸指圧の聖典とされている『黄帝内経(こうていだいけい)』というむずかしい本によると、人間の背中は陰陽五行説のいわゆる陽だという。

これに対して前面は陰である。その証拠に同じだけ太陽にさらしても、背中のほうが早く灼ける。しかし、おもしろいことに、陰のツポはすべて陽である背中にある。
           
だから、お腹の中の五臓六腑の疾患をなおすのに背中に灸をすえ、鍼を刺し、指圧をするのだそうである。

これに、プラトーンの『饗宴』にある、かつて人間は男女が背中あわせにくっついた球体だったが、あまりに倣慢だったため、神々の怒りを買って背中から断ち切られ、べつべつに追放されたという例のplatonic love 説を持ってくれば、肉体的(フィジカル)と精神的(メタフィジカル)と二つの根拠がそろって、背中の悲しみの理由が明らかになる。

しかし、この万感こもごもなる背中、なぜ男の背中でなければならないか。

陰陽五行説をもう一度持ち出して、男はもともと陽の存在だから陽の背中にその内面が集中的に現れるのだといえば『黄帝内経』の著者にあまりのこじつけと叱られようか。

男が背中を向けているだけで、そのこちらむきの背中には男の万感ことごとく集中して、その背中には顔以上の表情がある



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― posted by 大岩稔幸 at 01:42 am commentComment [1]

男のマスク

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 古代中国・南北朝の時代、北斉に蘭陵王という若い王があった。王は他国との戦闘の際には奇怪な仮面(マスク)をかぶって出陣し、戦陣の先頭に立った。仮面をつけたのは、その顔があまりに美しかったからだという。あまりに美しい顔は敵に侮られ、戦の勝敗にもかかわる、と思ったのだろうか。はたせるかな、仮面をかぶった陵王に率いられた北斉軍は、常戦常勝、敗れることを知らなかったという。

 醜いものはおぞましい。おぞましいものは呪われている。呪われたものはそれを見るものに災いをもたらす。このゆえになら、醜いものはたしかに、同時に恐ろしいものでありうる。

 陵王の醜い仮面を見た敵軍が蜘蛛の子を散らすように逃げ失せたのは、その醜さが誘発する厄災を恐れてのことであろう。醜いものは尋常なものを怖がらせるのである。

 では、美しいものの場合は、どうか。古い詩にいうように「美しきもの見し人は、早や死の手にぞ渡されつ」である。古代の神話に現れる神々の宴をのぞき見た者どもの突然の失明や不慮の死は、この世ならぬ美に触れた結果である。

 陵王がもしほんとうに輝くばかりの美貌の持ち主だったなら、彼が素顔のまま陣頭指揮をとっても、敵軍はその美の輝きに目がくらんで逃げ失せたはずである。

 わが国は戦国時代の勇将たちの仮面は、見る者の目を思わずそむけさせる超然たる醜貌の対極には、匂うばかりの死に化粧ほどこした木村長門守の超然たる美貌を置かねばならない。ジャン・ジュネの言葉を借りれば「醜は休息中の美である」。これを逆立ちさせれば、美は休息中の醜だということになろう。

 超然たる美と超然たる醜を除くすべての中途半端なものは、男性の審美眼の王国から追放されねばならない。

 顔の美醜はけっして女性の専有物ではない。男性は女性よりもかえって深く、その欠如によってはインポテンツになるほど深く、みずからの美醜に傷つけられる心優しき存在なのである。


男の解剖学
高橋睦郎

― posted by 大岩稔幸 at 12:21 am

無責任男の活力

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 駐車場で、男が車をバックさせていると、植木等さん演じる主人公がやってきて「オーライ、オーライ」。親切に誘導を始める。真に受けた男が言われるままバックさせると、後ろの車にどすん。男が「この野郎」と窓から顔を出した時には、主人公は一目散に逃げている。

 一世を風靡(ふうび)した映画、無責任シリーズの一場面だ。「スーダラ節」という人を食ったような歌といい、それまでの大衆芸能にはなかったギャグとキャラクターで、笑いの新時代を告げるかのようだった。

 その植木さんが亡くなった。植木さんを国民的人気者に押し上げた「スーダラ節」は1961年。翌年から無責任シリーズが始まっている。「高度経済成長下の管理社会での下級サラリーマンの悲哀を自嘲(じちょう)的、爆発的に歌と体で表現した」(キネマ旬報・日本映画俳優全集)。

 とはいいながら、そんな無責任男が会社の危機を救ったりして思わぬ出世をしていくのだから、そこには夢もあった。多くのサラリーマンがこれらの映画に憂さを晴らし、あすへの活力としていったことだろう。

 失われた10年を経て低成長時代へ。その間、サラリーマンたちは猛烈社員、ダメ社員、企業戦士、窓際族―。毀誉褒貶(きよほうへん)、さまざまに呼ばれながら、厳しい企業社会を生き抜き、今、大量退職時代を迎えている。

 青少年期から植木さんの映画や歌に親しんできた団塊世代が退職を始める時に、サラリーマン生活を見届けるように生涯を閉じた。無責任どころか、責任を全うした人生だった


ssmile

scrazy









2007年3月29日
高知新聞 朝刊
小社会

― posted by 大岩稔幸 at 08:01 pm

エセ科学

 

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 今の社会には「科学がすべてを解明してくれる」と誤認している人が多い。確かに科学は生活の役に立ってきたし、寿命も延ばしてくれた。ここに誤認のもとがあるようだ。科学にも解決できないことはたくさんある。にもかかわらず、科学が答えを出してくれるに違いないと考えている。

 ダイエットにしても健康にしても、1日で手に入るわけはない。だが「手っ取り早く結果がほしい」との気持ちはあるし、時間に追われる現代人はコツコツ努力するという考えが希薄になっているようだ。科学的な装いで人々の気を引こうとする疑似科学ビジネスは、ここにつけ込んでいる。

 人は生きていれば「山」もあれば「谷」もある。谷のときには「このまま不幸が続くのではないか」と不安になり、先行きを照らしてくれるものに頼りたがる。それは占いだったり、幸運グッズだったり、疑似科学ビジネスだったりする。

 占いやおみくじは個人の楽しみの側面もあるが、疑似科学ビジネスは科学的な効能をうたうだけに悪質だ。証明されていなくても、「まだ研究中であり、害はない」と言い訳する。

 被害は、だまされて金銭的に損をしたというだけにとどまらない。明確でない科学的効能を人々がどんどん信じていくことにより、いろいろなことを吟味せずに受け入れ、無条件で信じることに慣れてしまう。疑うことを知らない人は政治的な主張も無条件で受け入れるようになるのではないか。悪くするとファシズムを生む土壌になりかねない。

 「疑う」ことにはエネルギーがいる。信じて受け入れる方が楽だ。だが、この「しんどさ」が一番大切だと思う。与えられた情報に簡単に同意せず、批判的に考えてみることが、正しい判断や選択につながる。

 私は科学者たちに「社会のカナリア」になってもらいたい。昔、炭坑にはカナリアを入れた鳥かごを持って入った。カナリアは微量な有毒物質にも反応し鳴き声を上げ、人を危険から救った。科学者は少なくともある程度、疑似科学が持つ「いかがわしさ」を見抜く目を持っている。科学者は炭坑のカナリアのように、いち早く鳴き声を上げ、社会に警告を発してほしい。

 私は、親類から新商品について「買っても大丈夫か」と相談を受けることがある。「やめた方がいい」とか、「効果があるかどうか分かる数年後に支持されているようだったら、検討してはどうか」と話し再考を勧める。多くの科学者は、いかがわしさを証明することを面倒がり、声を出してこなかったが、全国の科学者が身近な人々に語りかけることから始めてほしい。

 科学は本来、「価値中立」と言われる。科学者が生み出す成果に善悪はなく、使い方によって良くも悪くも働くという意味だ。科学者は、その使われ方を見ればどんな方向へ進むのか判断できる。誤った方向へ進もうとしていることに気付いたなら、「中立」の立場を踏み越えてでも問題を指摘し、危険性を社会に警告すべきだ。

― posted by 大岩稔幸 at 11:26 pm

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