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コンドルセの定理

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フランス革命時に活躍した政治家にコンドルセ侯爵がいる。数学者としても知られ、多数決を説明する「コンドルセの定理(陪審定理)」を発見した。

定理といっても難しくはない。ある問題について、答えの選択肢が二つしかなく、参加者が正しい答えを選ぶ確率が50%を超えている場合、参加者の数が多いほど正しい答えが導き出される確率が高くなる、というものだ。意識していなくても、多数決で物事を決める際の暗黙の了解事項だろう。

憲法改正手続きを定める国民投票法がきのう成立した。コンドルセの定理で考えてみると、投票は「賛成」「反対」の二者択一だから当てはまる。投票する人が正しい答えを選ぶ確率が半分以上という、もう一つの前提条件はどうか。

賛否どちらが正しい答えかは別にして、判断するためにはさまざまな情報が欠かせない。マスコミによる情報提供や自由で活発な議論、国会の改正発議から投票までの十分な時間などが必要だ。投票法はその辺りにあいまいさが漂い、いささか心もとない。

定理を逆からみると、投票参加者が少なければ、正しい答えが生まれる確率は低くなってしまう。投票率がどの程度なら問題ないのかは分からないが、下限を設ける必要はないのだろうか。発議の厳しい条件も、自民党の新憲法草案はハードルをぐんと下げているから、歯止めとして十分とはいえまい。

多数決のルールは民主社会に欠かせないが、使い方を誤ると思わぬ結果を招くのは歴史の教えるところだ。

― posted by 大岩稔幸 at 11:37 pm

虚ろなレトリック

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「権利ばっかり主張しないで、義務を果たせ」そんなフレーズをしばしば耳にする。思わずうなずきそうになるが、「まことの憲法講座」を連載した法律家の伊藤真さんは、ちょっと待て、と警告する。

「だって権利に義務なんか伴わない。権利は権利。義務は義務。それぞれ別物です」

伊藤さんは中でも自民党の新憲法草案について「『人権ばっかり主張しないで、国防や愛国の義務を果たせ』という考えが満ちている。これは国民を誤解させるフレーズだ」と言う。先日、こんな例え話で説明した。

「わたしが友達に一万円を貸したとする。わたしには『返せ』という権利がある。相手は返す義務がある。だけど、わたしに義務はこれっぼっちもない。国民に人権という権利があるとき、国の方にこそ『人権を守る』義務がある。国民に義務が伴う、というのはうそです」

伊藤さんが言うように政治の世界で言葉はねじ曲げられ、レトリックが横行するばかりだ。

伊藤さんは国民投票法案について「憲法改正派、反対派の両方にフェアでなければならないのに、圧倒的に改憲派有利。不公正だ」と指摘し続けている。ところが法案はあっという間に衆院通過した。反対や慎重審議を求める声が相次いだ中央公聴会からわずか一週間後のことだ。

公聴会では反対意見を述べる女性に対し、与党議員が「あんまり聞いても無駄かもしれませんけど」などと放言までしている。

耳を傾ける気がないのに「公聴会」。言葉はここでもないがしろにされ、同法案は中身も審議も伴わないまま今週、参院でヤマ場を迎える。



2007年5月8日
高知新聞夕刊
話題
天野弘幹

― posted by 大岩稔幸 at 07:49 am

美しい日本語

3

テレビショッピングで買い物したことは一度もない。でも、ふとした拍子に見始めると、引き込まれてつい一通り見てしまう。すごーい!優れものッ、といった大げさな相づちはともかく.説明が具体的で面白い。商品の機能や特徴、使い方などをわかりやすく伝える言葉選びが実にうまい。

「日本語って、あいまいで情緒的。詩とか小説ならいいけど、理屈っぽい話には向いていない」という評価をよく聞く。でも、合理的な実用性を納得させつつ「買わなくちゃ」というムードづくりまでする宣伝番組一つをとっても、単純にそう言い切れない気がする。

言葉は意思疎通の道具。日本語も、文学以外に科学技術の研究や開発にも立派に通用している。情緒的な部分があるからといって、全体がいいかげんではない。感情の世界、論理の世界を問わず、目的や内容が違っていても、表現を磨く必要は変わらない。

例えば、わずか17音で独自の境地をつくり出した松尾芭蕉も、論文や専門書で研究結果を伝える学者や技術者も、同じように言葉を吟味する苦労があるはず。つまり、言語そのものに向き・不向きがあるのではなくて、その言葉をどう使うかが肝心なのでしょう。
 
語感や潤いから考えると、電気製品の取扱説明書の文章は、当然ながら俳句には負ける。ただし、一部で提唱される「美しい日本語」の話になると、簡単には乗れないのだ。

もしかしたらそれは古い言葉? それとも敬語? 独特の雰囲気を持った方言? いったい誰が、どういう尺度で「きれい・汚い」を判断するのかしら。

第一、「美しい」という言葉は、客観的な基準となじまない。たとえ古語や死語がそうだと法で決められても、なじみの薄い現代人には、その味わいが分からず、なぜ美しいのかさえ理解できない。また、さわやかな敬語もあれば、多すぎて上滑りのいんぎん無礼というものもございます。さらに、方言に対する評価も極端に分かれてしまう。


今出演している朝ドラ「芋たこなんきん」の舞台が昭和40年代の大阪なので、セリフには懐かしい表現や言い回しが多く、とても覚えやすくて楽しい。でも、最近こんな批評をいただいた。

「本当は大阪弁なんて大嫌いなんだけど、なぜか、今回はいつもほどイヤみを感じない」

多分この方は、大阪弁そのものよりも、濱才や吉本の芝居などで受けるド派手、ずうずうしい、ケチ、しつこい、という強烈な印象がイヤだったと思う。

ところが、ドラマの大阪人たちは当たり前に家族や友人を慈しみながら面白く生きようとしている。それが自然で違和感があまりないから、いつの間にか言葉のイメージもよくなったのかもしれない。その場の雰囲気や話す人の姿勢によって、言葉に対する評価がかなり左右されるようですね。

地理的な方言とは別に、若者たちの話し言葉や業界用語などは、ある意識や経験を持つ者の共通語として、やはり、方言の一種だといえるでしょう。それらに対して、話す態度が悪い、意味不明の言葉が多くて困るといった外部の批判も、異質なものに対する「大阪弁大嫌い」発言に似ている。

世の中の目まぐるしい動きに伴って言葉も進化する。生活の変化を面白く的確にとらえる言葉を積極的に取り入れて、どこが悪い? 若者や業界人間の方言であれ、用語の範囲が広いほどに表現力が増してくる。さらに何かを伝える努力が加われば、なおしなやかで豊かな言話になる。

残念ながら、暗号に近い仲間言葉の多くは、時として外に開かれた寛大さが欠けており、むしろ連帯意識を強化しつつ、異質の部分を排除する符丁の働きが強い。

同じように、いわゆる「美しい日本話」にこだわり過ぎると、つい、それを使わない者は日本人として失格だ、仲間ではない、という独善的な考えにつながりやすい。それより、優れた道具としての可能性や機能を強調し、意図が明快・正確に伝わる、包容力のある日本語を追求することにしたらどうかしら?

ついでに、安倍晋三総理が推進する「美しい国づくり」も同じ落とし穴にはまらないように、ぜひぜひお願いしたいですね。





独善生む「美しい日本語」
外に開かれた寛大さを
イーデス・ハンソン

2007年3月19日
高知新聞朝刊
現論

― posted by 大岩稔幸 at 10:04 pm

地震の教訓

10

 エコノミークラス症候群という突発的な病気が、一般に知られるようになったのは、さほど古い話ではない。海外旅行で空港に着いた途端、呼吸困難に陥って意識を失ったり、時には命を落としたりする。

 飛行機の座席に長時間、同じ姿勢で座っていると、脚の静脈の血流が停滞、血栓ができやすくなる。飛行機を降りて歩きだすことで血流がよくなり、肺動脈に流れ込んだ血栓が血管を詰まらせて起こるという。

 サッカーの高原直泰選手が、この病気で、2002年のワールドカップを棒に振ったことを思い出す人も多いだろう。広く知られるきっかけになったが、発症が何も航空機に限らないことを、私たちは04年の新潟中越地震で、あらためて知った。

 車で寝泊まりしていた被災者に、この病気で死亡する例が相次いだのである。狭い場所で窮屈な姿勢でいるのが原因だった。手術後、患者をできるだけ早く歩かせるのも、血栓を防ぐ理由からだろう。

 今度の能登半島地震で、石川県は予防冊子を配布して注意を呼び掛けているが、避難所生活を送っている被災者を、テレビで見ても、足踏みをしたり互いに肩をたたき合うなどしている様子が映し出されている。中越地震の教訓が生かされているといってよい。

 被災地にはボランティアも続々入っているようだ。被災者と向き合う中で、彼らは、多くの課題を見つけ出すはず。これを新たな教訓に、災害時の避難生活を日常の暮らしに近いものにしていく。これが行政の務めでもある。


15




2007年3月30日高知新聞
小社会

― posted by 大岩稔幸 at 09:34 pm

十三詣りと成人式

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京都では、古くから十三詣りのしきたりがある。
        
生れた年の干支(えと)が初めて巡ってくる数え年の13歳。昔は13歳になると、大人の仲間入りをすると習慣づけられていた。男の子の元服もこの年頃が多かった。

女の子でも、「髪上げ」とか「初笄(ういこうがい)」「裳着(もぎ)」などの式があり、少女から大人の女になったことを意味していた。

京都では、陰暦3月13日(今は陽暦4月13日)に、13歳の少年少女が、晴着に着かざり嵯峨嵐山の法輪寺にお詰りする。

法輪寺は虚空蔵菩薩が御本尊で、虚空蔵菩薩は智慧の仏さまなので、ここに詣って智慧をいただくという習慣であった。

この時、ここに詣った者は、帰り、嵐山の渡月橋を渡りきるまで口を利いてはならないといわれていた。うっかり、口を利くと、せっかく授かった智慧が消えてしまうのだという。

盛装した少年少女が、真剣な顔付で、渡月橋を渡る姿は、想像しても楽しく頬笑(ほほえ)ましい。

一種の成人式だった。

今は成人式が政府の行事の一つとなって、各県ではそれぞれの形で行われているが、毎年のように20歳になった新成人たちは、不行儀で、酒に酔ったり、暴れたり、ろくでもない不始末をおこして見苦しい。

昔の子供は13で、大人の仲間入りをして心も引きしめ、智慧を仏さまからいただき、より更に、立派な人間になろうと目ざしたのだから可愛らしい気がする。

数え年13といえば、私の子供時代は、小学校を卒業する年であった。

教育の問題が論じられているが、論じ尽されたとも感じない。子供を甘やかしすぎ、ゆとり教育などいって、授業時間を減らしたことが、学力低下を招いた根本だと思う。

鉄は熱いうちに鍛えろという諺を仇(あだ)おろそかにすべきではない。

子供の頃は吸取用紙のようにいくらでも智識を吸い取る能力を持っている。

意味がわからなくても5歳から論語の素読をさせられた昔の子供は、道徳の標語も無意識に体で覚え込んでしまっている。

世界の智識や文化から、あれよあれよと立ち遅れてしまった日本が、過去のように世界に誇れる子供たちの智能水準を取り戻すには、もっときびしい教育のあり方を研究する必要があるのではないか。

私が20年間住職をしていた、岩手県の天台寺のある浄法寺町では、成人式を8月15日にしていた。遠くへ働きに出ている子供たちがお盆休みで帰れる日と敗戦記念日をあてこんだのである。いやでも平和に思いをこらせる成人式のあり方は清潔でさわやかであった。

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瀬戸内 寂聴 (作家)
「十三詣りと成人式」






2007年3月24日(土)
高知新聞夕刊
灯点(ひともし)

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kokuzo

― posted by 大岩稔幸 at 12:15 am

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