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一部閉鎖のお知らせ

いつも当ホームページを御覧いただきありがとうございます。
 
度々のことで申し訳ありませんが、暫くの間、再度のリニューアル作業も兼ねてホームページを一部閉鎖という形を取らせていただきます。
 
なるべく早く作業を終えて再開させたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。

― posted by 管理人 at 12:02 am

ばら色の夕焼け

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 三人の粗末な身なりの男たちが語らいながら夕暮れの道を歩いている。道の向こうには赤い色の建物。そして空にはばら色の夕焼け雲が浮かんでいる。三人のうち真ん中の一人だけが神秘的な純白の衣服をまとっている。

 ジョルジュ・ルオーの連作版画『受難(バッシオン)』 の一枚「キリストと弟子たち」。白い衣服はキリストである。ルオーは親友で詩人のアンドレ・シュアレスの詩篇「受難」 に啓示を受けて、この木版画を制作した。ルオー最晩年のステンドグラスを思わせる重厚な質感と深い色調の作品である。シュアレスの詩にこんな一節がある(『ルオー「受難」』岩波書店)。

かくも白い姿の御方のまわりに
円光が孔雀の尾を拡げる
白熱の火、御顔は熟である
裳なき御衣は船首の舷燈
音なき御足音は純白の船である

 白は聖なる色であり、神の色である。シュアレスにとってもルオーにとっても、キリストは白い衣をまとう「白い姿の御方」でなければならなかった。

 この何かを深く問いかける作品は、長野県の諏訪湖の湖畔に建つ白亜の美術館「ハーモ美術館」 に展示されている。ここにはアンリ・ルソーやマチスの作品などが所蔵されているが、館内の多目的ホールの壁にルオーの 「受難」をはじめ「ミゼレーレ」 「サーカス」などが並べられている。

 このホールではコンサートも開かれる。もしここで、ルオーの作品に囲まれながら、アレグリの 「ミゼレーレ」やヤフオーレの「レクイエム」を聴くことができたら、それこそこの世のものとは思えない天上の法悦にひたる一瞬ではないだろうか。

 
 ところで、イエスと弟子たちはどこへ向かって行こうとしているのか。「受難」という主題からはイエス処刑前と考えられるが、この画面からは、イエスが死後三日して復活したあと、弟子たちの前に現われた話の一つ 「エマオの旅人たち」 の場面を思い起こさせる。

 「ルカによる福音書」24の13〜14によると、「弟子の二人、エルサレムよりおよそ三里離れたエマオという村に行く途中、起こりたる凡てのことを語りあいしが、イエス御自ら近づきて彼等に伴い居たまえり。されど彼等の目は之を認めざるよう覆われてありき。」

 イエスが死んで三日目の黄昏、二人の弟子がエマオ村に戻っていくと、誰かがその道の途中そばについてくる。そして悲しんでいる彼らになぜかとたずねる。二人の弟子はエルサレムでイエスが殺された話をする。彼らはまだ自分たちのそばにいる人がイエスであることに気づかない。やがて家に入り食事を共にし、この人がイエスであることを知る。

 作家遠藤周作は、この挿話はイエスが死後も同伴者として弟子たちのそばにいるという宗教体験を語るものであると書いている(『キリストの誕生』)。

 はじめはだれかわからなかったが、やがてその人こそ自分と共に歩んでくれる人であることがわかってきた。魂が通じ合ったからである。

 私たちにはさまざまな道づれ(同伴者)がいる。親子や夫婦という人生の同伴者(ライフ・メイト)。友人や隣人という社会的な同伴者(ソーシャル・メイト)。不安や痛みを分かち合える心の同伴者(メンタル・メイト)。

 これだけの同伴者に恵まれているだけでも幸せといわなければならないが、じつは、人は死を前にしたようなとき、「わたしの人生はなんだったのか」 「死んだらどこへいくのか」といった人間存在の根源的な問いに出会う。

 そのとき、それを語り合える同伴者を求める。それは家族でも友人でもない。それは魂の同伴者(ソウル・メイト) とでも呼べる人である。

 エマオの旅人たちにとって、それはイエスであった。彼らにとってイエスは家族や友人を超える魂の同伴者であった。

 宗教をもたない人でも宗教的体験に近い魂にふれるような人との出会いがあるのではないか。その相手はその人にとって魂の同伴者である。

 このルオーの作品は宗教画であるが、キリスト教という宗教をはなれて、この白い衣の人を魂の同伴者と考えることもできるのではないか。

 その人はだれなのかはじめはわからない。しかし、話を交わしふれ合っていくうちに、この人こそ自分の魂の同伴者であることをさとる。そして、そうした魂の同伴者と出会えると、それまでの人生の考え方あり方が一変し、人生の苦悩や生死の苦痛を一気に超えられるにちがいない。

 こうした魂の同伴者にめぐり会える人はよほど幸運というべきであろう。もしめぐり会えるとしたら、いつ、どこでめぐり会えるのか? それは誰も予測できない。おそらく長い苦痛と深い渇望を耐えしのんだすえ、不意にめぐり会えるのかもしれない。
          
 それにしても、この三人の行く手の空に浮かぶ夕焼け雲のなんという荘厳さ。これほどの雲を描いた画家はこれまでいたであろうか。

 このばら色の雲は、夜に入る前の青い空をいっそう強調するかのように、日没の壮大な響きを奏でている。

 ばら色というのは、「ばら色の人生」というように、希望の色である。あるいは「ばら色の暮らし」といえば優雅な暮らしをいう。しかし、ルオーがここで描いたばら色の夕焼け雲は、そうした通俗的なばら色願望とはおよそ異質なものである。

 遠藤周作は『死海のほとり』 『イエスの生涯』 『キリストの誕生』 の三部作によく夕陽や夕焼けの場面を書いている。その新潮文庫のカバーはいずれも夕焼けの写真である。彼はルオーをこよなく愛していた。

 たとえば『死海のほとり』の「奇蹟を待つ男」アンドレアは、夕陽が禿山を狐色にそめる中をイエスが弟子たちを連れておりてくるのをたびたび見ている。

 私たち日本人は夕陽や夕焼けにとりわけ親和感を抱いている。古くから短歌や俳句には夕陽や夕焼けが数限りなく詠まれてきた。日本人には浄土思想にむすびつく落日信仰といえるようなものがある。それは民話や童謡にまで受けつがれている。夕陽や夕焼けは日本人の魂の遺伝子に組み込まれている。

 日本的キリスト教観を追求してきた遠藤周作がイエスを登場させるとき、そこに夕陽がさしているのは、日本人のメンタリティ(心性)の現われであろう。日本人にルオーの作品を熱愛する人が多いのは、夕陽や夕暮れの場面が多いからかもしれない。

 キリストと弟子たちの行く手には、ばら色の夕焼け雲が大きく一つ浮かんでいればいい……。

 そして、この三人とおなじように、魂の同伴者たちが歩く道にも、このばら色の夕焼け雲がふさわしい。

 


癒しの美術館
ルオー「キリストと弟子たち」
北里大学名誉教授
立川昭二

Vita No.99
2007年4月発行

― posted by 大岩稔幸 at 10:21 pm commentComment [1]

遠山桜

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昭和29年「大日本雄弁会講談社」から出版された『講談全集いれずみ奉行』という講談集がある。見事な遠山桜が評判になったというおなじみの遠山金四郎である。

もとより講談というのは「無数の尾鰭、この無数の創作−それが傑れた古文人の筆で集成されたのが実録で、…大衆の嗜好の交響楽である」と木村毅が述べ、また大宅壮一は「講談の中に流れている民族的感情の最大公約数をつかまなければ、日本および日本人をほんとにつかんだとはいえない」とそれぞれこの本の表紙で語っている。

金四郎は寛政5年(1793)生まれで、亡くなったのが安政2年(1855)53歳であった。文政12年家督を継ぎ、作事奉行、勘定奉行、天保12年には北町奉行、14年大目付、そして弘化2年から南町奉行を嘉永5年までの8年間、遠山左衛門尉として務めた。

この頃、江戸は天保の飢饉が続き、あの鼠小僧が跋扈したが、ついに天保3年処刑されている。天保8年は大塩平八郎の乱である。水野忠邦が老中になり、13年政治革新を試み、翌年「倹約令」が出された。

そんな時代、大衆が、彼らの心情を理解してくれる奉行を望み、あるいは水野忠邦に対抗する英雄待望の願いが、講談などとして、遠山金四郎が形作られ、庶民の人気を博したに違いない。それだけ老中や奉行は怖く、嫌いな存在だったことを示しているのだ。

金四郎の時代はまた吉田松陰が日本を駆け巡り、高野長英、渡辺華山もいた。ようやく日本開港の機運、遠山はペリー来航の前の年に奉行を辞している。
               
江戸で名奉行として大岡越前守忠相と並ぶ遠山金四郎影元であるが、そのイメージは大きく異なる。大岡越前守は八代将軍吉宗の享保の改革の中で名を教科書に留めているが、一方金四郎はお白州で諸肌脱いだ桜吹雪である。

ところで遠山金さんの、そのいれずみには、いろんな話がつきまとう。本当はいれずみなど金四郎には無かったのではないかという説もある。その一つの証左として、天保13年の「彫物御停令」が挙げられている。

「軽キもの共、ほり物と唱、惣身え種々之絵又は文字をほり、墨を入れ、或は色入等ニいたし候類有之由、右躰之義は、風俗ニも拘り、殊二無庇之惣身え疵付候は、銘々恥可申之処…自今心得違いたし、新ニ彫物致侯もの於有之は、彫遣候ものハ勿論、其もの召捕、急度申付、其次第ニ寄、町役人共迄咎申付候条、態々町役人共より店々え井若年之もの共えは、別て厚く可申諭。但、右渡之趣、町々番屋え張出し可申。右之通従町御奉行所被仰渡候間、早々一統申通、急度可相守候。右之通、寅○天保十三年。三月八日館ニて申候。」とある。

このいれずみ禁止の令が出された時期に、遠山金四郎は実は北町奉行だったのである。つまりいれずみ禁止令の責任者の立場で、果たしていれずみを入れていたのだろうかというのである。もしも、いれずみがあったとしよう。その場合、さすがにお白州で「この桜吹雪を」という訳にはいかないと、藤田覚は述べている。

そう言えば、講談の中には、遠山左衛門尉が諸肌脱いで啖呵を切る情景はない。諸肌脱いでいれずみを披露する場面は、あるにはある。それは金四郎が「モウ再び遊里なぞへは足を向けられぬよう」と言われ、名残というわけで、郭に大尽遊びに出かけ芸者を挙げて、

「金『どうじゃ、今夜一つ湯に入って久し振りに乃公の肌を見せてやろうか』芸『どうかお願いいたします。彼の上り竜、下り竜、遠山桜の綺麗なのをねえ』金『ヨシヨシ』 一風呂浴びて出ると、裸の上に袴を穿いて座敷へ来る、竜の腕に摘んだところ、一片二片と桜花の散ったところ、芸者も幇間も恍惚として、この男前を吉原から取られて仕舞うのかと恨みは尽きないという顔をしております」という一節で、お白州どころではない。

また、玉林晴朗の『文身百姿』にも、「文政の初め頃は放蕩であって無頼の徒とも交友をなし、酒を好み、吉原へ通ひ、遊女に馴染み、大分もてあまし者であった」と述べ、腕に桜の文身を彫ったが、その後「出世して行ったが困ったのは腕の文身であった。それ故常に手甲の様なもので手首迄隠し盛夏の頃でもそれを取ると云う辛がなかった」と記している。

さらに、そのいれずみは桜吹雪ではなく、女の生首であったという話がある。中根淑が明治26年、雑誌『史海』に「帰雲子伝」を執筆した。「帰雲子」は金四郎晩年の号であるが、その中に「一日二世並木五瓶輿金争事、排障将相捕、金攘袂張気勢、不意露臂上花繍、其図断頭美人、乱髪蜘箋、箋端垂及肘、衆見之、且驚且笑、…」とある。

ある日、並木という歌舞伎台本作者と争い事になり、障子を開け、殴りかかろうと腕まくりしたところ、髪振り乱し、口に手紙を含んだ断頭美人のいれずみが現れた。皆それを見て驚くやらおかしいやらというのである。

しかし、玉林は「講談では女の生首が手紙をくはえた凄い図だなどと大袈裟に云っている」と一蹴している。テレビでおなじみは、遠山桜であるが、例えばNHKの「夢暦 長崎奉行」(1996年)での金四郎のそれは、女の生首であった。いずれにしても金四郎の肌にいれずみの可能性は高いが、お白州での桜吹雪は物語であろう。
             
 さて、講談では、奉行の金四郎と鼠小僧次郎吉との丁々発止も出てくる。 金『これははじめての面会、拙者が遠山金四郎じゃ、其方は和泉屋次郎吉と申さうる、か』 次『へイ白昼お逢いいたしまするははじめてでござりますが、夜分には一度お目にかゝりました』、

この鼠小僧次郎吉は江戸堺町に住み、小柄で敏捷なので鼠小僧と呼ばれた。武家屋敷へ盗賊に入り、その盗んだ金で酒食遊興博突にも使ったが、貧乏人に恵んだ義賊として知られている。

その次郎吉、最初博突の利で入れ墨のうえ追放となった。それで、次郎吉は入れ墨のところに、さらに竜のいれずみをして、黥刑のそれをわからなくしてしまったという説がある。

入墨者は世間で商売などをする際に、大きな障害となるので焼き消す者がいたが、次郎吉のようにいれずみを加えて、それを巧みに隠す手段もあり、「江戸中期に彫り物をする者が多く現れたのは、黥刑を受けた痕跡を隠す必要があった」(山本芳美)のである。

そのようにして入れ墨の2本線をかくした者は「入墨入れ直し者」と呼ばれていた。天保3年、鼠小僧次郎吉はついに捕まった。取調べに当たったのは遠山ではなく、町奉行榊原主計掛であった。その申渡、「異名鼠小僧事無宿入墨次郎吉 此者儀十年以前未年(文政六年)以所々武家屋敷廿八ケ所度数三十二度、…博突数度致候旨申立右依科入墨之上追放相成候処、入墨を消紛らし猶悪事不相止…」として獄門を申し付けられた。32歳であった。
               
「評判が評判を生んで、実に遠山桜の花さく、市中の噂。その翌年即ち嘉永の五年三月に功なり名遂げて、モウこゝらが退き時だと思いましたから、大勢の留むるを聞かずに、お暇を願う、まだ〈全盛時代ではありましたが、遂にお許しが出ました。退役されても阿部伊勢守殿の御相談には預っておられました。その内に安政二年二月二十九日五十三歳を一期として、逝去なさいました。…ひとまずこの辺で本篇を完結することにいたします〉と、『講談全集いれずみ奉行』は締めくくっている。

大塚薬報 2007/No.623
3月号

― posted by 大岩稔幸 at 05:24 pm commentComment [1]

ある美術教員

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12月15日早朝、教育基本法改悪の反対意思を表すために、私は国会前に座りに行った。国会前の歩道にはさまざまな市民団体、各県の教職員組合の人びとが座っている。早速、北海道教職員組合の知人に声を掛けられ、彼らの間に座らせてもらうことにする。高知の先生たちにも出会った。久しぶりに国会へ行った。数えると37年ぶりだ。しかし、時代の気分はすっかり変わってしまった。

私は教育基本法の字句を頭に浮かべる。前文では「個人の尊厳を重んじ」、「個性ゆたかな文化」と述べ、第一条(教育の目的)では「個人の価値をたっとび」、「自主的精神に充ちた」と続け、そのうえさらに第二条(教育の方針)では「自発的精神を養い」と繰り返し強調している。

これほども個人の確立を謳った教育基本法だったのに、戦後教育は失敗し、個人を確立できなかった政治家たちによって、解体されようとしている。今さらながらに、教育基本法が私たちの精神を支え育ててくれたことを思う。

例えば美術教育。戦時中、描象画を描くことは非難され、取り締まりの対象となっていた。敗戦後、少しは変わったであろうが、もし教育基本法の理念がなければ、私は高崎元尚先生に出会うことができただろうか。高崎先生も、すぐれた現代美術家であり得ただろうか、と思う。

1956年、私は家に近い、遊び場・筆山の裾にある土佐中学校に入った。そして土佐高等学校卒業までの6年間、高崎先生に美術を習った。美術を高崎先生に習ったというよりも、振り返ると、高崎先生に出会い、美術の時間を過ごしたと言った方がよい。

高崎先生は母校・土佐中(旧制)を1940年に卒業している。数学が得意だった先生は早稲田大学専門部工科に進んだが、ドイツで起こった近代建築運動、バウハウスに興味をもち、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科へ移った。

数学を好み、精繊な論理を組み立てる性格は、その後の作品にも反映されている。だが、1943年秋、学徒出陣となり、海軍の通信に携わり、敗戦。東京都の学校に勤めたりした後、1951年に郷里へ戻り、城北中学校を経て母校の教師になった。

高知へ帰ると、ピエト・モンドリアンの幾何学的抽象画を東洋的に解釈したという「朱と緑」の作品を描き、東京のモダンアート協会に参加している。以来、高知県美術展覧会(県展)、モダンアート研究会、具体美術協会などを通して、若い芸術家に刺激を与え、常に自分の既成の作品を打ち破る作品を発表してきた。

私たちが高崎先生に出会ったころは、まだ貧しい時代、美術の教材は満足できるものではなかった。だが先生はいろいろな材料を工夫し、毎回、私たちの前に置いてくれた。

白い大きな紙に墨汁で、好きなように描きなさいとか。木切れを積みあげ、好きなものを取って、勝手に彫刻しなさいとか。予算の乏しいなかで、エッチングの機械を購入し、好きなものを描きなさいとか。材料は多様だったが、すべて好きなように取り組みなさいだった。

こうして高崎先生は、静物、風景、人物などに向かって描写の修練をするのではなく、物そのものに向かうように誘った。既成の教材を使わない、物あるいは自然と自己との関係を問う、この構えは私たちが卒業した後さらに深まっていった。

ある時は、剪定後に校庭に積まれた楠の枝を使った。生えている木の上部をそのまま地面に立てると、みすぼらしく見える。ところが幹から水平に伸びている枝を、九〇度起こして地面に立てる。群がった枝は林になり、山になり、枝の分岐や曲線が組み合わさって、校庭が思わぬ景観に変わった。

あるいは、枯れて切り倒されたメタセコイヤの大木を使って、「現代美術葬」を行うと宣言した。校庭に大木を横たえ、木が高く伸びた姿を際立たせるため、幹に石膏を塗った白い布を巻きつけた。雨が降り、石膏が溶けて地面に流れたり、再び乾いて固まったりし、木はさまざまな表情を見せる。

これらは高崎先生の頭脳から湧き出る着想の、わずかな断片である。生徒たちは先生の美術の授業から、物に向かって感じることが、知識を媒介にせずに直接考えることにつながる、得がたい体験をするのだった。

見方を変えれば、こんなに新しい発見に出会う。その感激は、生きることに喜びを見出す力になっていったに違いない。高崎先生は生徒たちを刺激するだけでなく、ベニヤ板に無数のキャンバス片を張りつけた代表作「装置」シリーズ、積みあげたブロックを破壊して、その陰翳のなかを歩かせる作品など、高知から関西に、ニューヨークに、先駆的な現代美術を送り続けてきた。

また、決して先輩ぶらずに若者を評価する先生は、田島征彦、征三、合田佐和子ら多くの美術家を鼓舞してきた。私は高崎元尚先生への感謝と共に、現代美術が学校の授業でありえたのも、個人の確立を求める教育基本法の理念のもとでのことだったと思う。

野田正彰
(関西学院大学教授、評論家=高知市出身)

「ヨーロツパのアクションペインティングに圧倒され、『ああ、負けた』と思ったことがある」と高崎さん。創作活動を語る表情は情熱的で、明るい(高知市幸町の自宅)

ある美術教員
好きなように物に向かう

2006年12月28日
高知新聞夕刊

― posted by 大岩稔幸 at 11:47 am

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