2010/1/2
カテゴリー » エッセー
不東(ふとう)
三蔵法師・玄奘(げんじょう)の、インドへ達せずば東へ戻らず、という気概を示した言葉。『大唐大慈恩寺三藏法師傳』に、玉門関の手前、瓜州(甘粛省安西県)を発ち草原に入ったときに年老いた胡人に西域行きを止められたときの「貧道爲求大法。發趣西方。若不至婆羅門國。終不東歸。縱死中途。非所悔也。」(私は大法を求めんがために西方に発とうとしているのです。もしバラモン国に至らなければ、けっして東に帰って来ません。たとえ中途で死んでも悔いはありません)。
また、玄奘が玉門関の外に五つある烽(狼煙台・要塞)の第一烽で捕まった時に校尉(指揮官)王祥に言った「誓往西方。遵求遺法。檀越不相勵勉。專勸退還。豈謂同厭塵勞。共樹涅槃之因也。必欲拘留。任即刑罰。奘終不東移一歩以負先心。」(西方に赴いて遺法を尋ね求めようと誓ったのです。それなのに貴方は励ますことなく専ら退き返すことを勧めるのですか。苦労を嫌ってどうして共に涅槃の因を植えるといえましょう。どうしても私を拘留しようとするなら、すぐに刑罰につかせて下さい。私はどんなことがあっても東へは一歩も歩みません)。
さらに、砂漠で水の入った皮袋を落として水を失い、やむなく十里ほど戻ったときの「自念我先發願。若不至天竺。終不東歸一歩。今何故來。寧可就西而死。豈歸東而生。」(自分は先に願をたてて若しインドに至らなければ一歩も東に帰るまいとした。今なぜ引き返しているのか。むしろ西に向かって死ぬべきだ。どうして東に帰って生きられよう)の三箇所に見える。
玄奘は、仁寿 2年(602)〜麟徳元年(664)中国唐代の僧。法相宗の開祖。洛州陳留(河南省偃師県)の人。俗姓陳氏。13歳で得度。洛陽の浄土寺で勉学したのち武徳5年(622)に具足戒をうけ、成都から草州、相州、趙州をへて長安に戻り、大覚寺に住んで道岳、法常、僧辨といった学僧から倶舎論や摂大乗論の教義を受けたが、多くの疑義を解決することができず、国禁を犯して貞観3年(629)インドへ出発。中央アジア・カシミール経由でマガダ国に入りナーランダ学院にて戒賢に師事。
大乗の唯識学(瑜伽論)を中心に仏教論理学や文法学などを広く研究し、貞観19年(645)帰朝後、没するまで『大般若経』『解深密経』『成唯識論』など総計76部1347巻に及ぶ訳業を完成した。これにより唐初の仏教界に法相宗が生まれ,日本の奈良にも伝えられた。弟子弁機は『大唐西域記』を撰し,慧立に『大唐大慈恩寺三藏法師傳』がある。なお小説『西遊記』は『大唐西域記』や『三藏法師傳』の話にもとづき、明の呉承恩が隆慶4年(1570)ごろ撰したもの。
― posted by 大岩稔幸 at 10:36 am
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新しい年、トラ年が明けた。「口あけて腹の底まで初笑い」(虚子)。元日をこんな調子で過ごすことができたら、「笑う門には福来たる」で穏やかで幸せな1年を迎えることができそうだ。
しかし社会や身の回りを見渡すと、笑ってばかりはいられない。笑いを忘れたような景気に、デフレが追い打ちをかける。収入の目減り、失業問題もある。そんな折、思い起こすのは昨年、本紙に載った「ぷかぷか人生」と題したサックス奏者、坂田明さんの一文。
バンド仲間と海外へ演奏旅行に出掛ける。ぼろぼろの会場。こんな対応があるのか、と怒りの声が上がる。坂田さんはこうたしなめたという。「こんな貧乏な国の人々がおれたちを呼んでくれて、音楽を聴こうとしてくれてんだよ。この人たちが呼んでくれなきゃ、ここには来られなかったんだぞ」
おんぼろ飛行機には「飛ぶだけで偉いじゃないか」。遅れて来た列車には「来るだけで偉いじゃないか」。虫がゾロゾロ出て来ると「虫も生きられない所じゃ、おれたちも死んじゃう」。心の持ち方一つで社会の景色は変わるというのが坂田流。
突き詰めると、苦しいこと悲しいことがあっても、生きているだけで偉いじゃないか、と考えることにも通じる。昔中国の王はこんな言葉を残した。「苟(まこと)に日に新たに、日々に新たにして、また日に新たなり」
日々に刷新があれば、1年はさらに輝いてくる。
高知新聞
小社会より
― posted by 大岩稔幸 at 12:12 am
2009/7/3
カテゴリー » 医 学
電車の車内に坐る女性の乗客3人はマスクをかけ、男性2人はかけていない。その一人は咳をして飛沫を撒き散らしている。左上に「『マスク』をかけぬと‥」とあり、体温計とベッドで臥している場面が描かれている。マスクは黒色の菱形をしている。下段には、縁先で母親と女の子がうがいをしている。お盆にうがい薬の瓶が置かれている。
斜めの帯に、「汽車電車人の中では『マスク』せよ。外出の後は『ウガヒ』忘るな」と文語体で善かれ、右下に黒地に白抜きの文字で「『マスク』とうがひ」と大きく記されている。「うがひ」は「うがい」のこと。語源は鵜飼、鵜が魚を呑んで吐き出すことに由来するという。
これは、今から90年前、大正7年から9年にかけて大流行したスペイン・インフルエンザ(通称スペイン風邪)の予防のため、内務省衛生局(今の厚生労働省)が作成して全国に配布したポスターの一枚である。
美術作品とはいえないが、当時の庶民の風俗が的確に措かれており、医療史はもとより社会文化史の貴重な資料といえる。このほか、「病人は別の部屋に」「予防注射と日光消毒」などを標語としたポスターが8種ほど作成され、3万枚以上も配布された。
スペイン・インフルエンザは世界史最大の疫病といわれ、第一次世界大戦に乗じて全世界に流行し、世界で死者4千万人、日本国内では死者50万人という大災害をもたらした。これは世界大戦や関東大震災の死者の4〜5倍にあたる。このインフルエンザはスペインに発生したわけではないが、世界大戦中でスペインから最初に報道された。いずれにしろ当時の人たちにとっては未知の「新型インフルエンザ」であった。忘れられたその歴史的事実については歴史人口学者・速水融(あきら)の大著『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(藤原書店)に詳しい。
日本人の半数が罹患したというこのインフルエンザは、たとえば精神科医で歌人の斎藤茂吉は長崎医学専門学校教授をしていた大正9年長崎で罹患し、友人の島木赤彦あての手紙に「下熱後の衰弱と肺炎のあとがなかなか回復せず」と書いている。また福島県猪苗代町では大正7年11月10日 66歳の老女が犠牲になったが、彼女はアメリカにいた細菌学者・野口英世の母シカであった。
なかでも新聞紙上をにぎわせて話題となったのは演劇界の寵児島村抱月で、大正7年11月5日肺炎を併発して死去した。そのとき抱月は弟子で愛人であった日本最初の女優松井須磨子と同棲中であり、はじめ須磨子が罹患したが、抱月に移り、死に至った。
ところが、「カチューシャの唄」や「ゴンドラの唄」で一世を風靡した須磨子は、翌大正8年1月五日抱月のあとを追って縊死自殺をとげたのである。「女優松井須磨子自殺す」というニュースはセンセーショナルに報じられ、大正ロマンをかざる一大事件となった。
ところで、こうした人間ドラマが不気味に進行しているさなかの大正7年12月27日早朝、雪の残る東京に、22歳の青年が母をともない、妹の看病のため、はるばる東北の花巻から上野に到着、小石川区雑司ケ谷町の旅館に止宿した。青年は早速妹を入院先の永楽病院(東大付属病院小石川分院)に見舞い、その様子を故郷の父親あての手紙に、次のようにつづった。
「拝啓 今朝無事着京敦し候。午後二時永楽病院にて面会仕り候処別段に顔色も悪からず言語等常の如く御座候。昨日は朝三十八度夜三十九度少々咽喉を害し侯様に見え候。……」
こう書く22歳の青年は宮沢賢治。この年盛岡高等農林学校を卒業、家業を手伝っていた。父は政次郎44歳。花巻で質・古着商を営んでいた。母イチ41歳。そして妹とし子(トシ)19歳は目白の日本女子大学校3年生、積善寮に寄宿していた。
賢治は母を先に帰し、以後一人で毎日とし子の病室に通い、体温の上下など容態を詳しく父親に手紙で、毎日かならず一通、ときには二通書き送る。それによると、発熱ははじめ心配した腸チフスによるものではなく、翌年1月4日の手紙にあるように、「割合に頑固なるインフルエンザ、及肺尖の浸潤によるものにて今後心配なる事は肺炎を併発せざるやに御座候」ということであった。
インフルエンザは今も昔も学校など集団生活している人たちを真っ先に襲う。とし子のいた女子大でも学生の3人に1人がこのために欠席したという。とし子は資産家の娘であったので、名のある病院に入院し、主治医は名医といわれた二木謙三博士で、当時としては最高の治療を受けることができた。
先の1月4日の手紙には、とし子が「伝染室」に入れられているとあり、「医員の注意は殆んど集中し居り候由決して御心配無之候」とある。
このスペイン・インフルエンザの災害については、後になって統計などでその被害の大きさが知られたが、当時は報道といえば新聞しかない時代であったため、この新型インフルエンザの恐怖について人びとは意外に気づいていなかった。当時はまだコレラ・赤痢・腸チフス・痘瘡の四種伝染病が最大の恐怖の対象であった。
宮沢賢治も妹が腸チフスでなかったことに安心し、このインフルエンザが前代未聞の死亡率の伝染病であるという認識はなかった。したがって、賢治の手紙には東京におけるインフルエンザ流行の世相を伝える文面はとくにないが、大正8年1月23日の手紙では、「近頃又感冒流行にて病院にも入院者大分増し申し候」とある。そして、先の1月4日の手紙に次のように書いている。
「尚私共は病院より帰る際は予防着をぬぎ、スプレーにて消毒を受け帰宿後塩剥(えんぼつ)にて咽喉を洗ひ候。勇々御心配被下間敷候。」
「塩剥」とは塩素酸ナトリウムの俗称で、うがい薬として使われていた。病院の「伝染室」の出入りには専用の予防着をつけ、消毒していたことがわかる。
また1月28日の手紙では、「当地は感冒流行の噂は聞き侯へども成程と思ふ様の事には未だ会はず候。但し往来には仁丹を少しつヾ噛み、帰宿後は咽
喉を潅ぎ」と書いている。賢治がマスクをしていたかはわからないが、うがいをしていたことがわかる。
それにしても、科学者の一面をもつ宮沢賢治の父親あての45通の手紙は、おそらくスペイン・インフルエンザの症状について素人が記したもっとも精細な病歴(カルテ)であり、医療史の貴重な資料といえる。
あの松井須磨子の自殺事件は賢治の滞京中であったが、手紙には記されていない。病室の妹の両便の始末までしていた賢治は世間的事件などに関心が及ばなかったのかもしれない。2月下旬とし子が退院すると、3月上旬とし子をともなって花巻に帰っていった。
さて、今日でもインフルエンザといえばまず「マスクとうがい」である。
90年前、宮沢賢治は東京の街角のどこかに貼られていたこのポスターを目にしていたのではないだろうか……。
スペイン・インフルエンザの予防ポスター
内務衛生局編『流行性感冒』大正11年より
(速水融氏の厚意による)
Vita 2009/7・8・9
通巻 No.108
北里大学名誉教授
立川昭二
癒しの美術館 43
― posted by 大岩稔幸 at 09:45 pm
2009/6/13
カテゴリー » 医 学
― posted by 大岩稔幸 at 12:15 am
2009/6/6
カテゴリー » 全 般
この4月から介護保険の認定の方法がかわりました。変更された内容が明らかになると、多くの利用者やその家族、介護関係の団体、施設の事業者などから 「高齢者介護の生活実態に即した改定とはいえない」という不安や不満、怒りの声が上がりました
その波紋の広がりに厚生労働省は施行直前の3月24日、新しい調査基準の一部見直しを発表しましたが 「修正は表現を変えただけで不十分」と批判の声はおさまらず、導入してわずか数日で「経過措置」という異例の対策を講ずる羽目になっています。
政府は「介護給付の適正化」により介護保険の信頼性を高め持続可能な介護保険制度制度を構築していく」と説明してきました。政府のいう「介護給付の適正化」とは「不適切な給付を削減し、適切なサービスを確保する」となっています。
しかし先ごろ共産党小池議員が入手し発表した厚生労働省の内部文書により、国の狙いが「適切なサービスの確保」ではなく「要介護認定調査の変更」による給付費の削減だったことが裏付けられました。
公表された内部資料(要介護認定平成21年度制度改正案)には要支援2と要介護1の認定の割合が 「当初想定していた割合7対3にならず5対5になっている」として、要支援2と要介護1の割合が想定していた7対3になるように軽度の人を増やす方針が明記されています。認定度がかるくなれば給付の削減につながることは明らかです。
次に要介護認定の度合いを軽くする仕組みについて解説します。
ひとつは調査員が申請者に聞く調査項目を82項目から74項目に減らして介護度が軽く出るようにしたことです。
以前から1次判定では認知症の人が軽く判定される傾向にあると云われてきましたが、今回の改定ではそれがますます顕著になっています。
削除された項目に「火の始末」があります。これは命にかかわり、近所の住民に不安を与え、家族には目の離せない行為です。
「幻視・幻聴」によって夜中の徘徊行為も生じます。水分補給も命にかかわります。「飲水」もなくてはならない項目です。削減された項目はいずれも2次判定で重視されてきた項目ばかりです。
二つめは聞き取り調査の判断基準です。これも変えられました。たとえば寝たきりのため「移動」や「移乗」のできない人は「介助されていない」にチェックが入ります。薬の服用では、3月までは飲む時間を忘れたり、飲む量が分からない人は「全介助」でした。4月からは「適切に薬を飲めていない」場合でも 「介助されていない」です。
今回の判定基準の変更には、調査にたずさわる専門家のみなさんから「これでは申請者の実態が反映されない」と批判の声があがっています。
三つ目は審査委員会の権限の問題です。介護サービスを利用するためには市町村の担当窓口に申請します。調査員による聞き取り調査を受けます。その結果をコンピューターに入力します。これが1次判定です。
次に保健・医療・福祉の専門家3人以上で構成する介護認定審査会が、1次判定に基づいて訪問調査員の特記事項と主治医の意見書を加え、申請者の生活の全体像を把握し判定します。これが2次判定です。
この二つの段階を経てサービスが利用できるようになります。
この2次判定は「1次判定を修正・確定し、必要に応じて1次判定の変更を行う」ことのできる唯一の場です。3月までは審査会の2次判定で要支援・要介護に振り分けていた作業が、要支援2と要介護1の割合が想定していた7対3にならない原因は介護認定審査会にあるとして、今回の改定から判定作業をコンピューターに任すなど審査委員会の権限が大幅に引き下げられました。
適正化と称して介護給付を削減し、これが世論の追求にあい「経過措置」をとらざるを得ない始末になっています。介護保険制度をコンピューター任せにせず、利用者やその家族の介護と生活の状況に合わせて十分に介護が行き届く制度にしていかねばなりません。
おかしいと思ったら黙っていないで声を上げていくことが大切です。「適正化」などという大本営発表のような言葉に騙されてはいけない。
― posted by 大岩稔幸 at 10:51 pm
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