ローティーンの非行

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 一般社会をみると、この15年間ほどで未曾有のネットワーク社会が成立し、われわれは好むと好まざるとにかかわらず、情報の氾濫のなかで生活することとなった。すでに経験を積んで批判力が十分に備わった人間にとっては、この社会で情報を取捨選択することはそれほど困難ではない。問題は子どもたちである。彼らは判断基準も批判力も十分に持たないから、入ってくる情報をそのまま鵜呑みにしてしまう。

 例を挙げよう。母親との口げんかのあと、「携帯電話が欲しい」とパソコン画面に入力したところ、あれよという間に、多数の援助(交際)の申し出が集まり、「30分でいくら?」と時給を定めて、そのまま実行した14歳の少女がいた。罪悪感や恥の感覚がまったくないことに衝撃を受けた両親は、知人の勧めで家族療法を受けたが、少女にはまったく通じなかった。後にこの少女については「アスペルガ一障害」が診断されたのだが、驚いたのは、「時給」感覚で売春行為を行うのが、この少女に限らなかったことである。

 別の例では、パソコンに「性的いたずら」と入力して、そこにあったマニュアルどおりに女児に対する強制わいせつ行為をおこなった15歳の少年がいた。この少年は、知能は高いけれども友人はひとりもおらず、学校に行かずに自室でパソコンに向かうか、本屋かゲームセンターで暇をつぶしていた。

 インターネットは情報の宝庫であるが、厄病神の側面も持つ。親からは、「得意なことを見つけよ」とお尻を叩かれたり、自立を迫られたりするのであるが、溢れかえる多くの情報のなかから、何をどうやって選択しようか、と若者たちは迷い、混乱する。

 なかでも、社会性やコミュニケーション能力、想像力に障害があって頑固なこだわり行動を示す自閉症スペクトラム障害の子どもの場合は、「興味を持つこと」と「実行すること」との間にあるべきチェック機能がすこぶる弱い。冒頭に挙げたふたりの触法少年もそうであった。心地よい居場所と、好きな作業が見つかればよいが、どちらも得られず孤立してしまうと、対人関係に憧れてアダルトビデオの模倣が行われたり、理科実験や人体実験のような犯罪が行われたり、さらにはメディアを賑わす理解しがたい動機による殺人が実行されたりするのである。

 問題は、若者文化のなかから暴走族や番長たちが消えて、反社会性という軸が無くなり、社会に正邪硬軟とりどりの情報が、優先順位抜きにちりばめられたとき、それにさらされた子ども達にどのようなことが起きるか、である。
 
 自分は無法者ではない、というためには無法者が存在することが前提である。つまり、「何をしでかすか分からない」とレッテルを貼られた人がいることによって初めて、「自分はしてはいけないことと、してよいことの区別をつける人間である」という自己認識を持つことが可能になる。 
         
 そのように考えていくと、反社会性を体現する者たちの衰退は、一般の人間のなかの「何をしでかすか分からない」部分を、活性化してしまうように思えてくる。

 ローティーンを心身の発達という観点から見るとき、その体が突然、男らしくあるいは女らしくなり、心は自己像を求めて常に不安定となる。些細なことで腹が立ち、些細なことで有頂天になり、些細なことで悲しくなる。あるときは倣慢、あるときは卑屈、それがひとりひとりのなかで起きるのであるから、集団になると、それはもう大変である。そこで傷つけあいが起こるのは、助け合いが起こることより頻度が高かろうことは容易に想像できる。

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心と社会 No.127 2007
38巻1号

― posted by 大岩稔幸 at 01:19 pm

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