古代中国・南北朝の時代、北斉に蘭陵王という若い王があった。王は他国との戦闘の際には奇怪な仮面(マスク)をかぶって出陣し、戦陣の先頭に立った。仮面をつけたのは、その顔があまりに美しかったからだという。あまりに美しい顔は敵に侮られ、戦の勝敗にもかかわる、と思ったのだろうか。はたせるかな、仮面をかぶった陵王に率いられた北斉軍は、常戦常勝、敗れることを知らなかったという。
醜いものはおぞましい。おぞましいものは呪われている。呪われたものはそれを見るものに災いをもたらす。このゆえになら、醜いものはたしかに、同時に恐ろしいものでありうる。
陵王の醜い仮面を見た敵軍が蜘蛛の子を散らすように逃げ失せたのは、その醜さが誘発する厄災を恐れてのことであろう。醜いものは尋常なものを怖がらせるのである。
では、美しいものの場合は、どうか。古い詩にいうように「美しきもの見し人は、早や死の手にぞ渡されつ」である。古代の神話に現れる神々の宴をのぞき見た者どもの突然の失明や不慮の死は、この世ならぬ美に触れた結果である。
陵王がもしほんとうに輝くばかりの美貌の持ち主だったなら、彼が素顔のまま陣頭指揮をとっても、敵軍はその美の輝きに目がくらんで逃げ失せたはずである。
わが国は戦国時代の勇将たちの仮面は、見る者の目を思わずそむけさせる超然たる醜貌の対極には、匂うばかりの死に化粧ほどこした木村長門守の超然たる美貌を置かねばならない。ジャン・ジュネの言葉を借りれば「醜は休息中の美である」。これを逆立ちさせれば、美は休息中の醜だということになろう。
超然たる美と超然たる醜を除くすべての中途半端なものは、男性の審美眼の王国から追放されねばならない。
顔の美醜はけっして女性の専有物ではない。男性は女性よりもかえって深く、その欠如によってはインポテンツになるほど深く、みずからの美醜に傷つけられる心優しき存在なのである。
男の解剖学
高橋睦郎
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