くむべき本質的な教訓は、ほかにあるのではないか。4大学の入試問題をウェブに投稿していた事件は、19歳の予備校生逮捕に発展した。
日進月歩の通信技術を利用した「前代未聞の事件」という評価はその通りだ。入試制度への信頼を損ない受験生や保護者の不安をかきたてたことも確かだ。それゆえ、不正への怒りをたぎらせる人が少なくなかったのだろう。
それらが相まって、容疑者を大罪人のように捜し出そうとする空気が生まれ、監視の強化や情報教育の徹底という結論を導いている。だが、そこで思考停止してしまっては、事件から受けるべき多くの示唆を見逃す結果になるのではないか。
受験生の彼に見えた現実はなんだったのか。出発点はそこだ。情報がまだ少ないが、それでも現段階で言えることは、彼がこういう騒ぎになることを、期待も予測もしていなかっただろうということだ。
不正の認識はあったとしても、入試業務を妨害するという意図は存在しなかっただろう。ましてや「偽計業務妨害」などという罪名など、きっと知りもしなかったであろう。そういう主観的な思いに比して、いきなり刑事事件にすることを望んだ大学と、彼を逮捕した警察、そして世間の狂騒はあまりにもバランスを失している。
「カンニングは誰でもする」とか「小さな悪にすぎない」と言い張るつもりはないが、多くの人がその誘惑にかられた経験があり、その中の少なくない人が、実際に隣の答案を盗み見たことがあるはずだ。
ある場合は、ばれて叱責(しっせき)され、重ければ処分され、深く悔悟する。ある場合には、うまくやりおおせて何のおとがめも受けない。それがこれまでだった。甘いという批判も可能だが、未来ある子どもたちへの教育的配慮が働いていたともいえる。
新しい通信手段に目を奪われすぎてはならない。問題の核心の一つが、彼の主観的意図と社会の反応のギャップにあるとすれば、問われるのは社会の変容ぶりである。
ここでは大学についてだけ述べる。問題流出が発覚したとき、大学は不正行為者に向かい、名乗り出るよう呼び掛けることもできたはずだ。自らの監視体制の不備も一因になったかもしれないのだ。そして仮にも、あまたある大学の中から、自校を選び、志望校としてくれた受験生なのだ。
彼が申し出るならば、時間をかけて事情を聴けばいい。そうすれば、入試体制のほころびを知り、そうまでして合格したかった受験生の内実に触れることもできただろう。
薬物事件などを起こした学生に、近年の大学は極めて厳しい。ほとんどを退学処分にしている。
教育機関である大学は、学生や受験生の不正や犯罪に無関係ではあり得ない。その反省に立って、若者に生き直しの機会を広く保障する使命もあるはずだ。
共同通信編集委員
佐々木 央
2011.03.06(日)
高知新聞朝刊
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