2008/12/9
カテゴリー » エッセー
武田信玄を慕う甲府の街の野趣あふれる料理。昔から、稲作よりも小麦が多かった甲府では、それを元にした粉食の食文化が栄えた。代表的なものが「ほうとう」「うどんとは違う。ほうとうは別物」と、地元の人はひときわの愛着を寄せる。
甲府駅前のロータリーには「宝石の街 甲府」と記されたモニュメントが立っている。ぶどうやワインでは名の知られた土地だが、宝石の街でもある。その昔。近隣の景勝地、昇仙峡が水晶の産地であったことから、それを研磨する技術者が多く輩出した。水晶が採れなくなってからも研磨の技術は伝承され、今も他のさまざまな宝石がこの地に寄せられ、卓越した技術者たちが精微なカットをほどこしている。
甲府駅のすぐ脇の小さな公園には、威風堂々とした武将の像が据えられている。右手に軍配を持ち、足を広げて座っている。武田信玄。戦国時代の甲斐の国の英雄は、今もなお甲府の人々の心の拠りどころであるようだ。武田通りという道路が設けられ、その先には武田神社が鎮座し、風林火山の幟がはためく。
疾きこと風の如く、
徐かなること林の如く、
侵掠すること火の如く、
動かざること山の如し ′
その信玄公率いる甲斐の軍勢が、野戦の陣を張るにあたって食していたのではないかともいわれるのが、甲州の名物料理ほうとう。小麦粉を練った平打ちの麺を、ふんだんの山の幸と共に味噌仕立ての汁で煮込んだ一品だ。海のない盆地であるから、魚介の類は入らない。野趣に富んだ素朴な郷土料理である。
「ほうとう」の名は、平安時代の古い辞書に表記がある「はくたく」が音便変化したものとされる。似たような料理は日本の各地にあるが、「ほうとう」とよび慣わすのはこの地のみ。一説には信玄が自らの刀で野菜を刻んだことに由来するともいわれるが、それはいささか後付けの感がある。
かぼちゃが入っていなければ「ほうとう」にあらず。壁に掛けられたホワイトボードには「お客さまへ」から始まる断り書きが記されている。
「ほうとうは出来上がりに30分前後お時間をいただいております」。急ぐ身ではない。「ほうとうをひとつ」。店の方は言った。「注文を受けてから野菜を切って、麺を茄でてという段取りですので、お時間がかかるんです。つくり置きができないものですから」
ほうとうは「疾きこと風の如く」とはいかないのである。待つ身は「徐かなること林の如く」がよろしい。林に風が吹いて、いよいよほうとうの登場。持ち手付きの鉄鍋にクックツと煮立った面。ダシはカツオブシで取り、麦の赤味噌が溶かれている。
具材の陣容は、カボチャを総大将に、白菜、サツマイモ、サトイモ、シメジ、椎茸、三つ葉、鶏挽肉、長ネギ、ナス、きざんだ油揚げ。ほうとうには「カボチャが欠かせない」と甲府の人は言う。それが何ゆえだかはワカラナイが、12月、冬至の頃にカボチャを食べると風邪を引かないなどともいうから、この時期にはもってこいだ。
食べるにあたって「侵掠すること火の如く」ともいかない。アッチッチなので、麺を一本、具材をひとかじりというスローなテンポで食べ進める。量がたんまりとあるので、さながらひとりで鍋をつついているような気にもなる。身体が温まる。腹にずしりと来る。野菜やきのこが中心の具材だからヘルシーでもある。
ああ、満腹にして満喫。しばらくは「動かざること山の如し」。
2008年12月号
JAL機内誌
SKYWARD
― posted by 大岩稔幸 at 11:25 pm
2008/12/8
カテゴリー » エッセー
人口4万に満たない黒石市内には、焼きそばを商う店が、70軒ほどあるという。そもそもは戦後の食糧難の時代に、地元の製麺所で作られた中華麺を焼きそばとして転用したのが始まり。ただし中華麺ではソースが絡みにくかったため、新たにそれ用の麺がこしらえられた。それが太くて平らでコシのある麺。
昭和30年代頃の話だ。焼きそばは家庭の食卓に上ると同時におやつでもあった。駄菓子屋では新聞紙を袋状にしたものに、焼きそばが盛られた。黒石の「つゆ焼きそば」も、それからほどなくして登場したという。
早くから店をだしている「妙光」の主人が「つゆ焼きそば」を始めたのは今から20年ほど前。本来のつゆ焼きそばは日本そばのダシに焼きそばが入っていたとのことだが「ウチの場合はぼくの失敗なのさあ。忙しい時に焼きそばを間違えてラーメンのスープの中に入れぢまっで。お客さんには出せねから、自分で食べたら案外いけた。そんでメニューに加えたのさあ」と屈託なく話す。今では客の8割方は、つゆ焼きそばが目当て。禍を転じて福となすの好例だ。
階下のテーブル席でつゆ焼きそばを待つ。主は厨房に立った。焼きそばは蒸すようにして焼く。具は豚肉、キャベツ、モヤシ、タマネギ、ニンジン、ピーマン、ネギ。ソースは市販のものに酒、味醂、醤油を足し、隠し味としてなんとイチゴジャムを少々加える。それを絡めて焼きそばは完成。これを、煮干し、鶏ガラ、豚骨で取ったスープに入れて、つゆ焼きそばとなる。
つゆをひと口。おお、甘辛酸香、参画した材料がもたらす味のすべてをまんべんなく感じる。そばはもっちりとし、ソースの味が内側にしっかりと抱え込まれている。舌に新たな味の記憶として残され、思いがけない時にふと食べたくなるような特徴のある味わいと食感だ。「味付けは店ごとに大きく異なる」というから、別の店々にも興味が湧く。ああ、こんな焼きそばがあるとは、つゆ知らず。
2008年11月号
JAL機内誌
SKYWARD
― posted by 大岩稔幸 at 11:55 pm
2008/12/7
カテゴリー » 全 般
低すぎる医療費
asahi.com 2008年12月03日
医療とお金の話です。日本では保険診療が行き渡っているので、医療にどれだけお金がかかるのか実感がありません。医療は多くの専門職の時間と技術、高額の機器を必要としますから、多大なお金がかかって当たり前なのです。
国家の安全は防衛と医療で維持され、国家の将来は教育と医療で保証されます。両方に不可欠な医療には国家責任で多額の税金を投入する。これは当たり前です。
しかし外来患者1人あたりの医療費は米国6万2千円、フランス3万6千円、スウェーデン8万9千円、日本7千円。なぜかと言うと、日本は医師や看護師、その他の医療職も極端に少ないからです。日本の人口1千人あたりの医師数は経済協力開発機構30カ国中26位。100床あたりの医師数も看護師も米国の5分の1です。
米国の救急医療現場のテレビ番組で医師、看護師以外に多くの人たちが病院の現場で働いているのを見た方は多いでしょう。若い医師が血液検体を検査室まで運ぶ、などという米国ではあり得ないことをやっているのが日本の医療の現実です。病院で働く医師や看護師の低い給与体系と過重労働で日本の異常に低い医療費は成立しています。その医療費をもっと下げろ、というのが日本の政策です。
厚生労働省は、日本は病床が多すぎるのだ、と言います。米国では出産は1日、手術をしても数日で退院させられます。大病院の周りには家具付きアパートがたくさんあり、患者さんは超早期退院の後、アパート代を支払って通院治療を受けるのです。それでも米国は国内総生産に対し、日本の1・7倍の医療費を使っています。
国立がんセンターの若い医師の月収が、手取りで20万円あまりという記事もありました。大学病院でも同じです。日本は医療にもっとお金を投入すべきです。
病院勤務医の大部分が当直明けの休みも保証されず、リスクに比して低給与、という労働条件で働いているのに医療安全などと言っても、それは絵空事でしかないのです。皆さんは36時間勤務で寝ていないパイロットの飛行機に乗りたいでしょうか。(自治医科大学とちぎ子ども医療センター長)
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上記の記事の内容は医師でなくとも、正しい情報をもとに、普通の感覚で現在の日本の医療が抱える問題を正しく考察するならば、容易に理解できる内容だと思います。
ところが、厚生労働省や財務省、それに内閣をはじめとする日本政府が医療政策を考えるうえでの前提とは決してなりません。舛添厚生労働省大臣も医師数を増やすとはいっていますが、医療費を増やすという発言は決してでてきません。したがって、日本の医療崩壊を推進しているひとりといわざるおえません。
このように、日本ではなぜか、良識が排除され、政策が決定されていきます。
一般の国民の方々も自分や家族が病気になったときに十分な医療が受けられない可能性が日々高まっているということを真剣に考えるべきではないでしょうか。
天夜叉日記
http://ameblo.jp/showatti/
― posted by 大岩稔幸 at 10:47 pm
2008/12/2
カテゴリー » 美術
「真珠の女」というタイトルは、コロー自身がつけたものではない。後世のだれかが、額に一つだけかかっている小さな髪飾りを、真珠と見聞違えてつけたタイトルが通用してしまった。髪飾りは真珠ではなく、頭にかぶった網に、草の葉を点々とつけた一つが、たまたま額の中心にきたものだ。モデルの服装などからみて、真珠に見聞違えたのが不思議なくらいである。
フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」もヨーロッパでは好まれているよだが、あちらの人びとは真珠が好きで、なんでも真珠に見えてしまうのかもしれない。
モデルはコローのアトリエの近所に住んでいた商人夫妻の娘、ベルト・ゴールドシュミットではないかといわれている。これは、この作品のあとに描いた、「ド・フードラ嬢」のモデルが、やはりコローのアトリエに近いタバコ商人の娘だったこともあって、身近な人物と考えられたようだ。
フードラ嬢も「真珠の女」同様、髪に草の葉と花の飾りをつけている。 こういう髪飾りが、娘たちの間で流行っていたのだろうか。
いずれにしても、「真珠の女」はすでにモデルの肖像画の域を超えた絵になっている。ダ・ヴインチの「モナリザ」も、ある商人の妻を措いたものであることが、最近の研究でいよいよはっきりしたようだが、しかし、「モナリザ」
のモデルがだれであろうが、今では問題ではない。コローの「真珠の女」の場合も、同じである。この絵の女の顔は、コローが手もとにおいて、コツコツと磨き上げたマドンナなのだ。
「真珠の女」のポーズを見ると、膝の上で組み合わせた手の形など、ダ・ヴインチの「モナリザ」によく似ていて、コロー自身、「モナリザ」を意識していたことは十分に考えられる。
「真珠の女」は、バッと見るとほとんどセピアのモノクロームに近い絵である。これは、もしかするとコローが早くから関心を寄せていた写真となんらかの関係があるのかもしれない。50代後半のコローの肖像写真も残っている。写真を通して、色彩をあまり使わない、モノクロームに近い画面から生まれるリアルさのようなものを、コローは発見したのではないか。
もう一つ、「真珠の女」のモデルは、「モナリザ」のそれのように、一目見てなんとなく微笑しているようには見えない。静かで、どちらかといえば硬く、もの思わしげな表情をしている。しかし、「真珠の女」をじっと見ていると、なにか今にもほほ笑みでも見せそうな娘らしい気分が、ほのかににじみ出てくるのだ。そう望んで見つめるせいなのか。いや、それだけではないと思う。
「真珠の女」は、ただ真面目な表情の女を措いたのではない。生命がたたえられて、こぼれ出しそうな、静かな一瞬とでもいうべきものをとらえている。それこそが、コローが手を入れ続けながら、この絵で追求していたものだったのではないかと思うのである。
コローは「真珠の女」を描き始めたころ、リウマチの発作に苦しめられるようになっていたといわれる。そのために大好きな戸外の写生がままならなくなり、室内で仕事をするようになった。常に風景を求めて歩き回っていた画家が、動けなくなったというのは、われわれの想像をはるかに超える苦痛だったに違いない。だが、それが彼の人物画に深化をもたらすことになった。
風景画も人物画も、コローの絵にはえもいわれぬ静けさが感じられるが、それは冷たい客観化ではなく、内側に熱い心を秘めた静けさである。
「真珠の女」というタイトルは間違いからつけられたが、しかし、ここに措かれた女性がすでに磨かれた真珠であり、くしくも絵の本質をいい当てたものになった。絵が、真珠の温かさをもっている。
大塚薬報
2008年9月号
No.638
― posted by 大岩稔幸 at 09:27 pm
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