電車の車内に坐る女性の乗客3人はマスクをかけ、男性2人はかけていない。その一人は咳をして飛沫を撒き散らしている。左上に「『マスク』をかけぬと‥」とあり、体温計とベッドで臥している場面が描かれている。マスクは黒色の菱形をしている。下段には、縁先で母親と女の子がうがいをしている。お盆にうがい薬の瓶が置かれている。
斜めの帯に、「汽車電車人の中では『マスク』せよ。外出の後は『ウガヒ』忘るな」と文語体で善かれ、右下に黒地に白抜きの文字で「『マスク』とうがひ」と大きく記されている。「うがひ」は「うがい」のこと。語源は鵜飼、鵜が魚を呑んで吐き出すことに由来するという。
これは、今から90年前、大正7年から9年にかけて大流行したスペイン・インフルエンザ(通称スペイン風邪)の予防のため、内務省衛生局(今の厚生労働省)が作成して全国に配布したポスターの一枚である。
美術作品とはいえないが、当時の庶民の風俗が的確に措かれており、医療史はもとより社会文化史の貴重な資料といえる。このほか、「病人は別の部屋に」「予防注射と日光消毒」などを標語としたポスターが8種ほど作成され、3万枚以上も配布された。
スペイン・インフルエンザは世界史最大の疫病といわれ、第一次世界大戦に乗じて全世界に流行し、世界で死者4千万人、日本国内では死者50万人という大災害をもたらした。これは世界大戦や関東大震災の死者の4〜5倍にあたる。このインフルエンザはスペインに発生したわけではないが、世界大戦中でスペインから最初に報道された。いずれにしろ当時の人たちにとっては未知の「新型インフルエンザ」であった。忘れられたその歴史的事実については歴史人口学者・速水融(あきら)の大著『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(藤原書店)に詳しい。
日本人の半数が罹患したというこのインフルエンザは、たとえば精神科医で歌人の斎藤茂吉は長崎医学専門学校教授をしていた大正9年長崎で罹患し、友人の島木赤彦あての手紙に「下熱後の衰弱と肺炎のあとがなかなか回復せず」と書いている。また福島県猪苗代町では大正7年11月10日 66歳の老女が犠牲になったが、彼女はアメリカにいた細菌学者・野口英世の母シカであった。
なかでも新聞紙上をにぎわせて話題となったのは演劇界の寵児島村抱月で、大正7年11月5日肺炎を併発して死去した。そのとき抱月は弟子で愛人であった日本最初の女優松井須磨子と同棲中であり、はじめ須磨子が罹患したが、抱月に移り、死に至った。
ところが、「カチューシャの唄」や「ゴンドラの唄」で一世を風靡した須磨子は、翌大正8年1月五日抱月のあとを追って縊死自殺をとげたのである。「女優松井須磨子自殺す」というニュースはセンセーショナルに報じられ、大正ロマンをかざる一大事件となった。
ところで、こうした人間ドラマが不気味に進行しているさなかの大正7年12月27日早朝、雪の残る東京に、22歳の青年が母をともない、妹の看病のため、はるばる東北の花巻から上野に到着、小石川区雑司ケ谷町の旅館に止宿した。青年は早速妹を入院先の永楽病院(東大付属病院小石川分院)に見舞い、その様子を故郷の父親あての手紙に、次のようにつづった。
「拝啓 今朝無事着京敦し候。午後二時永楽病院にて面会仕り候処別段に顔色も悪からず言語等常の如く御座候。昨日は朝三十八度夜三十九度少々咽喉を害し侯様に見え候。……」
こう書く22歳の青年は宮沢賢治。この年盛岡高等農林学校を卒業、家業を手伝っていた。父は政次郎44歳。花巻で質・古着商を営んでいた。母イチ41歳。そして妹とし子(トシ)19歳は目白の日本女子大学校3年生、積善寮に寄宿していた。
賢治は母を先に帰し、以後一人で毎日とし子の病室に通い、体温の上下など容態を詳しく父親に手紙で、毎日かならず一通、ときには二通書き送る。それによると、発熱ははじめ心配した腸チフスによるものではなく、翌年1月4日の手紙にあるように、「割合に頑固なるインフルエンザ、及肺尖の浸潤によるものにて今後心配なる事は肺炎を併発せざるやに御座候」ということであった。
インフルエンザは今も昔も学校など集団生活している人たちを真っ先に襲う。とし子のいた女子大でも学生の3人に1人がこのために欠席したという。とし子は資産家の娘であったので、名のある病院に入院し、主治医は名医といわれた二木謙三博士で、当時としては最高の治療を受けることができた。
先の1月4日の手紙には、とし子が「伝染室」に入れられているとあり、「医員の注意は殆んど集中し居り候由決して御心配無之候」とある。
このスペイン・インフルエンザの災害については、後になって統計などでその被害の大きさが知られたが、当時は報道といえば新聞しかない時代であったため、この新型インフルエンザの恐怖について人びとは意外に気づいていなかった。当時はまだコレラ・赤痢・腸チフス・痘瘡の四種伝染病が最大の恐怖の対象であった。
宮沢賢治も妹が腸チフスでなかったことに安心し、このインフルエンザが前代未聞の死亡率の伝染病であるという認識はなかった。したがって、賢治の手紙には東京におけるインフルエンザ流行の世相を伝える文面はとくにないが、大正8年1月23日の手紙では、「近頃又感冒流行にて病院にも入院者大分増し申し候」とある。そして、先の1月4日の手紙に次のように書いている。
「尚私共は病院より帰る際は予防着をぬぎ、スプレーにて消毒を受け帰宿後塩剥(えんぼつ)にて咽喉を洗ひ候。勇々御心配被下間敷候。」
「塩剥」とは塩素酸ナトリウムの俗称で、うがい薬として使われていた。病院の「伝染室」の出入りには専用の予防着をつけ、消毒していたことがわかる。
また1月28日の手紙では、「当地は感冒流行の噂は聞き侯へども成程と思ふ様の事には未だ会はず候。但し往来には仁丹を少しつヾ噛み、帰宿後は咽
喉を潅ぎ」と書いている。賢治がマスクをしていたかはわからないが、うがいをしていたことがわかる。
それにしても、科学者の一面をもつ宮沢賢治の父親あての45通の手紙は、おそらくスペイン・インフルエンザの症状について素人が記したもっとも精細な病歴(カルテ)であり、医療史の貴重な資料といえる。
あの松井須磨子の自殺事件は賢治の滞京中であったが、手紙には記されていない。病室の妹の両便の始末までしていた賢治は世間的事件などに関心が及ばなかったのかもしれない。2月下旬とし子が退院すると、3月上旬とし子をともなって花巻に帰っていった。
さて、今日でもインフルエンザといえばまず「マスクとうがい」である。
90年前、宮沢賢治は東京の街角のどこかに貼られていたこのポスターを目にしていたのではないだろうか……。
スペイン・インフルエンザの予防ポスター
内務衛生局編『流行性感冒』大正11年より
(速水融氏の厚意による)
Vita 2009/7・8・9
通巻 No.108
北里大学名誉教授
立川昭二
癒しの美術館 43
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