2007/7/19
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「疑を以(も)って疑を決すれば決必ず当たらず」。性悪説を唱えた中国の荀子に、こんな言葉がある。あやふやな根拠に基づいて判断すると、結論もあやふやになってしまう、との意味だ。
地方でも始まった第三者委員会による「消えた年金」などの給付審査。荀子の言葉が脳裏をかすめることもあるが、判断の基本は「性善説に立つ」こと。人間は本来悪いことはしないという孟子の思想に倣い、「一応確からしい」ことが分かれば、年金給付が認められる。
性善説で思い浮かべるのは政治資金規正法。国民から選ばれた議員が道に外れたことをするはずがない、との前提に立っているから、概してきつい縛りは設けていない。政治団体の光熱水費、事務所費などの経常経費については、支出に領収書添付を義務付けていなかったのもこうした考えに基づいていた。
ところが…。架空の事務所費、ただの議員会館を事務所にしながらの多額の光熱水費、「ナントカ還元水」という釈明―安倍政権の閣僚から疑惑が次々に出ている。そして今、赤城農相の後援会組織をめぐり不自然な事務所費が指摘されている
先の国会では資金管理団体に限り、光熱水費などで一件五万円以上の支出があれば領収書添付を義務付けるよう規正法が改正された。これだと赤城農相の後援会組織などは対象外。規正法の基本は性善説との考えは根強いようだ。
年金問題で政治が国民に期待するのも性善説。万事めでたしのように見えてどこかしら腑(ふ)に落ちないものが残る。
― posted by 大岩稔幸 at 07:11 am
2007/7/15
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夏目漱石の松山時代の句に「卯の花や盆に奉捨(ほうしゃ)をのせて出る」がある。その年上京した俳句の先生、正岡子規に送って批評を請うた。
「奉捨」は一般には「報謝」。仏への感謝から転じて、巡礼や寺社詣での人へのお布施を言う。当時、四国にいた漱石は、お遍路さんへの報謝を子どもが盆に載せて出す、そんな初夏の光景を詠んだのかもしれない。
人騒がせな「報謝」の文(ふみ)が列島を縦断した。北海道から沖縄まで、全国各地の役所のトイレなどで、十枚前後の一万円札とともに手紙が見つかった。「修業の糧として役立ててください」と達筆の文面。封筒の表には「報謝」の二文字。「仏教系の宗教に関係のある人か」「ただの愉快犯では」などと、推理がにぎやかだ。
しかし、不思議なことに、「報謝の一万円札」は四国内では一枚も見つかっていない。ここに着目し、八十八カ所を回った後、お札ばらまきの旅に出たという見方もあるという。「誰が、何のために」はミステリーの定番だが、この手の話には深入りしない方が賢明だろう。
二年前、日本中の道路のガードレールで、鋭利な三角形の金属片が突き出ているのが見つかった。「誰の仕業だ」とみんな色めき立った。が、結局、車の接触で車体の一部がくっついたのだと、実験までして分かった。
冒頭の漱石の俳句には、報謝をめぐるほのぼのとした味があり、子規は採点で二重丸をつけた。だが、陰で誰かがほくそ笑んでいるような悪趣味な報謝には、たぶん点をくれまい。
― posted by 大岩稔幸 at 08:48 pm
2007/7/5
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福井県の若狭湾岸と京都の間には、幾筋もの「サバの道(サバ街道)」が通っている。浜捕れのサバに軽く塩をして、大急ぎで運んだ道だ。京の街に着くころには塩がなじみ、名物のさばずしなどに使われた。
「サバの生き腐れ」といわれるように傷みやすい。低温輸送が発達していなかった時代、日持ちのする塩サバは海から離れた地域でなくとも一般的だった。その意味では「塩サバの道」は全国各地にあり、庶民の味を届けていたといってもよいだろう。
そんな大衆魚の代表格であるサバが高級魚のマグロを産む―。まるで手品か何かのような話がきのうの本紙に出ていた。東京海洋大の吉崎悟朗准教授が年内に研究を本格化させ、五年以内の実現を目指すという。
クロマグロの精子のもととなる細胞をサバの稚魚に移植すると、やがて大きくなったサバから自然受精でサバと一緒にマグロが生まれるという。マグロ版の「代理父母」とでもいえそうだが、素人には何とも不可思議な科学の世界だ。
乱獲によるマグロ資源の減少で、規制は強まるばかり。一方のサバも、水産庁によると資源は低位にあり、漁獲量を減らさないとさらに減少する恐れがあるという。このままではマグロは超高級魚に、サバは高級魚になり、庶民の口から遠ざかりかねない。
研究が成功し、サバがわが子とマグロを産むようになれば、両種の資源増につながる可能性がある。まさに「一石二鳥」。サバから生まれたマグロは「誰の子」、などとは考えまい。
― posted by 大岩稔幸 at 10:36 pm
2007/7/3
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活字を読まない羊たち
東京の大手出版社の編集責任者の話です。
「いやぁ、売れない、本はもちろん、週刊誌も月刊誌も」
彼は打つ手なし、といった感じで話します。名の通った週刊誌、月刊誌ともほとんどが部数を減らしている。それも何万部単位で。
原因はさまざまです。駅の売店に置いてくれるところが減ってきた。雑誌は場所を取るから、というのも理由の一つ。あるいは地方の本屋さんが廃業したりして減った。地域の書店が消えるということは、宅配がなくなり定期購読者減少、という流れです。
「それより何より、本を読まないでしょう、今の人は」
全く同感。本も雑誌も新聞も。最近は慢画もネットで、という状態。紙の媒体はどこも苦戦を強いられています。
きちんとした文章を読まない、書かない、情報は必要なものだけネットで、という世代が増え続けて行き着く先は、杞憂かもしれませんが、私は日本人の総幼稚化、物事の表層しか見ない人が急増するように思えてなりません。
今の大学生が驚くほど物事を知らないというのは、多くの大学関係者が口をそろえます。あるいは入社試験でいろんな企業の間で数年前から言われ始めたのが、「書けない、読めない」。
原稿用紙3枚に論文を書かせると、1枚ちょっとで終わってしまう。国語のテストでは、本当に大学生かと疑いたくなるケースもしばしばだそうです。
きちんとした文章を読む、そして書くという行為は間違いなく脳の前頭前野を鍛え、感情をコントロールし、想像力を豊かにすると脳学者は指摘します。
近年頻発している説明しづらい事件も、果たしてこうしたことと無縁なのでしょうか。ネットを否定するわけではないのですが、それだけでは足りないということに気付いてほしいと願うばかりです。
危機感を持った学校現場では、徐々に取り組みを始めているところも増えています。朝の読書運動や新聞を使ったNIE(教育に新聞を)授業などがそれです。活字を読むことで、授業態度や生活態度に効果が表れ始めている、という報告もあり
ます。
「民」の字源は、「針で目をつぶされた奴隷」。最後に書く斜めの線は、瞳を突く針だった象形文字の名残です。
物事の本質が見えない、あるいは見ようとしない民は、表面的な情報に流され言いなりになる奴隷かもしれません。国にとってはコントロールしやすい、お上に従順な羊とも言えます。
活字を読まない羊たちを眺めながら、陰でほくそ笑んでいる人はだれでしょうか
― posted by 大岩稔幸 at 01:59 pm
2007/6/27
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青鬼特高、赤鬼憲兵
日本の憲兵の特徴は、軍事警察の機能だけでなく、「思想警察」として内務省の特別高等警察(特高)とともに、思想取り締まりの先頭に立ったことです。当時「青鬼特高、赤鬼憲兵」と呼ばれていた。
憲兵は先(ま)ず思想警察に関する限り、敢然とその埒(らち)を越え、労働運動、農民運動、学生運動、さては市民運動などの一連の軍事以外の各面にも、周到な視察を加えて、治安機関としての不動の立場を確立した。
「『思想は憲兵に聴け』といわれ、軍隊は憲兵を唯一の助言者として、その思想警察を高く評価していた」(『昭和憲兵史』)。
関東大震災(1923年9月)の際には、東京憲兵隊渋谷分隊長・甘粕正彦が、無政府主義者の大杉栄と、その妻伊藤野枝、おいの橘宗一(6歳)を混乱に乗じて虐殺するなど、憲兵は、早くから左翼思想を敵視してきた。
1929年5月から毎月、憲兵司令部が発行した『思想彙報(いほう)』では、「要注意壮丁」の思想考察をおこなっている。「壮丁」とは、徴兵検査を受ける義務のある満20歳の男子のこと。憲兵は、軍隊に反軍思想の持ち主が入り込まないように、国民を対象に思想統制をした。
同報第8号(1929年12月16日)では、築地小劇場新築地劇団「西部戦線異状なし」の演劇も記録されています。演劇人らが「検閲を巧みに逃れて、其の目的を完全に達成せんとするの技巧は、益々巧みになった」と記しつつ、「反軍的」場面を列挙、命令によって脚本から削除させた個所を掲載し、「軍隊に悪影響を及ぼさざる様適宜の処置が望ましい」と結論づけています。
同報第23号(1931年3月20日)では、「小学児童の階級的示威行動(山梨県)」の見出しで、地主を罵倒(ばとう)する歌を歌って行進していた児童のことまで記録しています。
憲兵は国会の開会中も議会に詰めて、議員の動きに耳目を働かせ、情報関係の特務10人を会期中の国会に常駐させていました。とくに、東条内閣は、反軍的、反東条的動向に対して、憲兵や警察、特高の監視網を使って国会議員まで弾圧しました。
反東条を掲げた中野正剛代議士の弾圧に憲兵が動き、軍事上の造言蜚語(ひご)罪で逮捕しました。中野を議会に行かせないための策略でした。中野は、警視庁から憲兵隊、検事居へ移送され、再度、警視庁から憲兵隊へとたらい回しになり、憲兵監視下の自宅で自殺に追い込まれました。
自衛隊の国民監視は、かつての侵略戦争に源流があるといえます。監視するのは本来国民で、監視されなければならないのは自衛隊のはず。
自衛隊の行為はまったくの越権であり、「プライバシーを守る」という民主主義の根幹を揺るがすことでもある。個人情報保護をうたいながら一方で国民のプライバシーを侵害し、思想信条および信教の自由を脅かすともいえる政府の態度は許せるものではない。
― posted by 大岩稔幸 at 09:50 pm
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