中国残留孤児が国に対する賠償請求を求めた裁判で、東京地裁は全面的に原告側の主張を否定し、棄却した。原告たちが、血も涙もないこの非情な判決に、怒り、恨み、失望したのは当然である。
原告たちが、まだ幼い時、中国に渡り、敗戦に遭ったのは、彼等に何の責任もない。戦争がなければ、彼等の両親は中国へ渡らなかったし、敗戦の引揚の時、彼等を捨てて自分だけで帰国したりはしなかった筈だ。彼等は文字通り、運命に翻弄されて生きてきた。
辛い運命にさらされた時、その運命を理解し、闘う力も智慧もない幼子だった。原告者たちの年齢は60代のはじめから60代後半までである。終戦の年生れた赤ん坊が、62歳の原告になっている。
私は北京で終戦を迎えた時、23歳だった。前年8月に生れた娘をかかえていた。娘はまだ歩くことも出来ず這い廻っていた。夫は終戦の年の6月現地召集されて、どこにいるのかさえわからなかった。
満1歳の娘を何としてでも日本に連れ帰らなければならぬという想いだけで、私は生きていた。中国人に殺されても仕方がないと脅えていた。私は自分の目で、北京に於ける日本人たちの中国人に対する横暴、虐待を見てきていたからだ。
もし、あの時、私が満州にいて、ソ連人の襲撃に遭っていたらどうだろう。私の叔父の一家はハルビンにいて、子供たちは、まだみな幼なかった。私は夫のいない北京の家で、子供を背負い、歩いてでも肉親のいるハルビンに行こうかと真叙に思いつめたりしていた。
あの時、もしハルビン行を決行していたら今の私はいないし、娘は、残留孤児になっていただろう。
人間とは情けない動物で、自分の経験していないことに対しては、まことに想像力が乏しいのである。自分の愛する人と死別して、はじめて同じ境遇の人の辛さや悲しみを理解出来るのだ。自分が失恋してみて、失恋のため正常な判断力を失ってしまった人の苦悩が察しられるのだ。
貧乏したことのない人間には、10円の銭さえ拾いたい貧しい人のみじめさがわからない。
私たち、戦争の時代を生き、戦争の実態とその虚しさを経験したものが、いくら話しても、戦後生れの人たちに、それを自分と同じようには感じさせられない。それでも人間には想像力の可能性が与えられている。
残留孤児の苦労を、帰国後の生活の苦しさを、彼等と同じにはわからないまでも、私たちは、自分を人間と思っているなら、想像力をふるいたて、駆使して、彼等の辛さ、苦しさ、心のひもじさを理解しようと努力すべきであろう。
判決文を読み、こういう判決文の書ける人の想像力のなさに恐怖と絶望を覚え、身も心も震えあがった。
2007年2月10日
高知新聞夕刊
灯点(ひともし)
瀬戸内 寂聴(作家)
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