高村光太郎に「牛はのろのろと歩く」と始まる詩がある。題はずばり「牛」。新しい年の?干支(えと)にちなんで読み返してみた。
牛歩は歩みがのろいことの例えだが、詩人によればただの「のろさ」ではない。「がちり、がちりと/牛は砂を掘り土を掘り石をはねとばして歩く。〈がちり、がちりと自然につつ込み喰(く)ひ込んで自分の道を自分で行く。」
力強くて着実な歩みだ。しかし詩人は、牛の本質をそれだけとは見ない。利口でやさしい眼(め)〉を持ち、厳粛な二本の角、正直な涎(よだれ)〉も持っていると書く。優しさや正直さは、万事がスピード優先の現代社会で、軽んじられてきたものではなかったか。
若者に「牛になりなさい」と勧めたのは夏目漱石。晩年、芥川龍之介と久米正雄への有名な手紙にある。人は「とかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れない」「牛は超然として押して行くのです」と。光太郎の牛とイメージが重なる。
金融、雇用、医療…さまざまな「危機」が越年した。まだ濃い霧が立ちこめている。迷える牛たちは、どこを目指せばいいのか。漱石は牛が何を押すのかについて「人間を押すのです。文士を押すのではありません」と説いている。
目先の利益だけを追い求める米国流のやり方は、破綻した。これからは雇用や環境問題など「人間」を中心に据えた仕組みづくりだ。その道を「がちり、がちり」と前へ押したい。
小社会
2009年01月01日10時09分
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