2011/5/7
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過ちを改むるに憚る事なかれ 2011.05.07
菅総理が中部電力に浜岡原発の運転停止を要請とのことです。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2011050702000037.html
日中戦争を研究した私は、この国は一度始めたことは やめられない国なのだと思っていました。
日中戦争が典型です。
どんどん中国奥地に攻め込む。 中国全土を日本軍が占領するなど不可能であることは、 火を見るよりも明らかだが、わかっちゃいるけどやめられない。
昭和16年の日米交渉で中国からの撤兵を求められたときが 撤退のいい潮時だったはずです。
沢本頼雄海軍次官は
「これまでの成り行きにまかせば戦争となることはほぼ自然の経路なり。 ゆえにこの際大観して従前の方途に進むを可とするや、
または心機一転して数年来の国策より考え直すを可とするやの問題なり。 今まで間違っていたからこれを続行するということは承服できず、
間違ったものは改めざるべからず」 と、言いましたが彼の正論は通らなかった。
ガダルカナルしかり。
太平洋の小島にそれほど戦略的重要性があるわけでもないのに、 敵が来ると、死力を尽くして守る。 しかも、兵力を小出しに小出しに使う。
秋田県八郎潟の干拓事業しかり。
戦後の食糧難の時代に八郎潟の干拓は計画された。 もちろん漁民は猛反対した。しかし、目下の食糧難と 来たるべき人口増加の危機を考えれば、カロリー調達の効率として 漁労よりは農耕のほうが効率的である。 「国家百年の大計」のために八郎潟は干拓しなくてはならないとして、
昭和32年から干拓が始まった。しかし、日本全体の食糧難を 八郎潟一ヶ所の干拓で解決できるはずがないのは明らかである。
戦後の農地改革によって農民は「自分の土地」を持ち、 「地主の土地」を肥やすために労力をかけようとしなかったための 非効率性は改善された。米の品種改良と農法の改善・普及もあいまって、 水稲の10アールあたり収穫量は、明治時代初期平均200キロ、 昭和戦前期300キロだったのが、1960年代には約400キロに達した。 戦前に50年かかって達成した収穫増量を農地改革の結果、 わずか十数年で達成したことになる。
八郎潟干拓事業が完成に近づく頃には、米余りは 誰でも予測がつくようになった。それでも当初の計画を 変更することなく、全国から「米作りの名人」を募集して 大規模農法による米の大量生産のモデル事業に固執した。 昭和42年から干拓地に入植を開始し、 故郷を離れて全国から集まった農民は、 借金をして米の大量生産以外には使い道のない農機具を買い整え、 「食糧難の解決のために」、希望に燃えて農業を始めたが、 昭和45年には本格的な米の生産調整が始まった。
「米作りの名人」ということは別の言い方をすれば 「米作り以外に能のない人」という意味です。 転作はできないことなのに、できないことをやらなければ ヤミ米作りの犯罪者ということになった。 食糧増産と産児制限の政府の目標は見事に達成され、 日本は米余りと少子化に苦しむことになった。
徹底的に考えることをせず、何か問題があると、 反射的に場当たり主義の対応をし、一度はじめたら途中で変更しない。
これでは長期的な国家プロジェクトはことごく失敗せざるを得ない。 大きな視野にたって戦略的な方針を定め、一歩踏み出すごとに、 その時点の視点から、最終目標を見直し、修正を重ねながら、 次の一歩を踏み出していく。大きな誤りに陥らないためには、
戦略をよく考えるとともに、誤りが小さいうちに修正する作業が 欠かせないのです。
今回の浜岡原発停止要請は、今の日本には 「間違ったものは改めざるべからず」という 英断を下す政治家がいたことを示すのでしょう。
まずはちょっぴり安心というところですが、 運転停止しても、核燃料が海岸に近い東海地震の震源直上にあるのは やはり不安。ぜひ、速やかに核燃料をよそに移す要請もしてほしいです。
― posted by 大岩稔幸 at 11:41 pm
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ジェロニモ(Geronimo本名:Goyathlay), 1825年頃 - 1909年2月17日)は北アメリカ大陸先住民アパッチ族の抵抗運動の軍事指導者。
アメリカは今も「西部劇」を生きる―ビンラディン殺害―
2011年5月1日、ウサマ・ビンラディン容疑者が、パキスタンの首都イスラマバードの北60キロのアボタバードという町で、アメリカのCIAによって殺害された。ビンラディンは9・11事件の首謀者である、というのがCIAの殺害理由である。
しかし、私は、10年前から、ビンラディンは9・11事件の首謀者ではなかったような気がしている。事件にアルカイダは関係していたのだろうが、彼は首謀者と言えないのではないか。首謀者は他にいるのではないか。その根拠は、アメリカ政府が、2001年12月13日に発表したビンラディン自身の次の言葉である。
「前週の木曜日(9月6日)に、その日(9月11日)に事件が起きるとの事前通告を受けた。その日、仕事を終え、ラジオのスイッチを入れた。飛行機が突っ込んだとき、彼ら(周りにいた者)は大喜びした。」(12月13日、アメリカ政府発表)
首謀者が、犯行の日取りを知らないということはあるのだろうか。5日前まで、彼は事件が起こることすら知らなかったようにも読める。犯行のその日、仕事を終えた彼は、ラジオのスイッチを入れ、冷めた目で、周囲の人たちを観察している。9・11事件以前の彼は、知られているとおりであろう。しかし、9・11事件を境に、彼のイメージは、アメリカの世界戦略の都合によって捏造、コントロールされていったのではないか。
逮捕したくなかった
私は、その気があれば、CIAがビンラディンを生きたまま逮捕することは可能であったのではないかと思う。ヘリコプターで急襲した作戦は40分で終了し、CIAの側に1人の犠牲者も出していない。「抵抗したから殺害した」ということだが、彼は武装していなかった。武装していない彼にどんな抵抗が可能だったのだろう。いきなり頭を撃たなくとも、彼の動きを封じることはできたのではないのか。現場には、鍛え抜かれた射撃の名手をそろえていたはずである。実況中継を見ていたオバマ大統領がその瞬間に言ったそうだ。「We got him.(仕留めた)」
アメリカが2001年10月にアフガニスタンを攻撃したのは、9・11事件の首謀者であるビンラディンをタリバン政権がかくまっているという根拠に基づいている。もちろん、国連安保理の決議はなかった。「自衛権の行使」ということだが、アフガニスタンはアメリカから遠すぎないだろうか。また、2003年3月のイラク戦争開戦は、大量破壊兵器がテロ組織にわたることを防ぐ、というのが大義名分であったが、大量破壊兵器はとうとうどこからも出てこなかった。こうして見ていくと、結果的には、アメリカの世界戦略にビンラディンはとても好都合な人物であったことがわかる。21世紀に入ってからのアメリカの戦争には、「テロとの戦い」という大義名分が必要だった。彼は、9・11事件以後、「テロとの戦い」のシンボルとして、最後までアメリカに利用されたのではないだろうか。
アメリカは、ビンラディンを逮捕したくなかったのではないか。法廷でビンラディンが語ることで、この10年間のアメリカの軍事行動の大義名分が崩れてしまうかもしれなかったからである。イスラム原理主義者は、アッラーの前では、ウソを言えない。裁判では、最後に、「あなたは、そのことをアッラーに誓って真実と言えますか?」と問えばいいのである。イスラム原理主義者なら、真実を語り始めるはずである。9・11事件以後も世界では数々のテロが行われたが、ビンラディン自身は、隠れることに追われ、実質的にはほとんど何もしていないのではないか。ビンラディンとは1度も会ったことのないような人たちが、各地でアルカイダを名乗り、テロ活動していたのではないか。そのことが露見するのをアメリカは恐れたのではないか。
「水葬」の理由
アルカイダを組織したビンラディンは、アメリカのCIAがソ連をアフガニスタンから追い出すために作り出した怪物である。CIAは、ビンラディンに資金も武器も提供し、全面的に利用した。ビンラディンがアメリカを利用したという面もあったかもしれない。しかし、イスラム原理主義者である彼は、アフガニスタンからソ連帝国主義を追い出してから、アメリカ帝国主義に立ち向かっていった。彼の母親は、パレスチナ人であり、アメリカと戦う理由は十分すぎた。そして、アメリカは、そのことを「テロとの戦い」を遂行するために、巧みに利用した。今回、ビンラディンを発見してから9カ月も泳がせておいたのは、大統領選挙でオバマ大統領に好印象を与えるタイミングを測っていたからだろう。いや、もしかしたら、アメリカは、この10年間、ビンラディンをずっと泳がせていたのではないか、とすら想像してしまう。
生死にかかわらず、アルカイダがビンラディンを奪還するだろうことは、十分予想できた。世界にイスラム教徒は約16億人(2009年)おり、アルカイダの支援者は2000万人いるといわれている。彼を奪還するために命をかける若者はいくらでも名乗りを上げたに違いない。たぶん、奪還のための巨大なテロが実行に移されたことだろう。また、埋葬されてもなお、ビンラディンは世界を動かす可能性があった。その埋葬地が「聖地」になり、アメリカ帝国主義に対する抵抗の象徴になる可能性があった。
イスラム教は、偶像崇拝を禁止しているので、その代わりに、聖地が大きな意味を持つ。メディナが、メッカとともにイスラム教の聖地なのは、そこにムハンマドの墓があるからだ。ビンラディンは、多くのイスラム教徒にとって、ムハンマド以後に出た最大の「英雄」であったことだろう。だから、アメリカにとっては、殉教者ビンラディンは、地上から永遠に葬り去る必要があった。アメリカがビンラディンを、場所を明かさずに「水葬」にしたのは、そういう理由によるものだろう。「水葬」が、イスラム教徒に対してエチケット違反であることは、アメリカもわかっていたはずである。砂漠を旅した者なら、皆実感を持って、知っているはずである。砂漠には、水葬のための水も、火葬のための木もないのである。砂漠では、伝統的に土葬がしきたりなのである。私はアラビア半島で見た広大な墓地には、1つの墓標もなかった。ただ、暗殺されたファイサル国王の墓には、大きな木が1本立っていた。
隠れ家を発見してからの9カ月の間には、いろいろな可能性が語られ、議論がなされたのに違いない。しかし、イスラム教徒と仲良くするための話し合いはなかったのだろう。ビンラディン殺害について、オバマ大統領は「正義が行われた」と語った。しかし、それは、アメリカの「西部劇」の正義である。21世紀の世界に通用する正義ではない。世界では、アメリカに「西部劇」の悪徳保安官のイメージを重ねた人も多かったのではなかろうか。ちなみに、ビンラディンの暗号名は、「ジェロニモ」であったという。・・・。
イスラム教徒とキリスト教徒が歩み寄れる時代は、はたして訪れるのだろうか。
http://www.janjanblog.com/archives/category/kouchi
http://nizm.jp/jelo.html
9.11は、アメリカ政府の陰謀か?
http://www.janjanblog.com/archives/14273
「死んだライオンより生きた犬」(アラブの反乱)
http://www.janjanblog.com/archives/31808
「911の真実を求める日本の科学者の会」のHP
http://js911truth.org/
― posted by 大岩稔幸 at 10:23 pm
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