メメント・モリ

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2012-07-01


「メメント・モリ」について考える
仮説妄言
「メメント・モリ(memento mori)」というラテン語を知っている方は少なくないと思います。Wikipediaを検索すれば、古代ローマでの解釈や、キリスト教における解釈が載っています。
そこに書かれているのは、「いずれ死ぬのだから生きている今を楽しめ」とか「現世の享楽にうつつを抜かすのではなく良き人生を送れ」といった内容です。現在では「生きている日々を充実させるための警句」だと考えている人も多いと思います。
いずれの解釈も正しいと思いますし、否定するつもりもありません。でも私には、どうにもシックリこない。なんだかとても薄っぺらく感じられるのです。
私が今回この「メメント・モリ」について書くのは、Facebookの知り合いがこのコトバを取り上げ、それに対して次のコメントを書き込んだことがきっかけです。
ボクはmemento moriというのは、孤独であることを恐れるな、そして自分の生の価値を過大評価するな、という意味ではないかという気もするんだよな。
これに対して他の知り合いから、「その解釈をさらに聞きたい」というコメントをもらったので、ここに書き記しておこうと思ったわけです。
もちろんこれは私の個人的な解釈です。そして場合によっては、かなりの人々を敵に回す発言になるかもしれません。
でも私にとってこの解釈は、自分の人生の重要な土台であり、「メメント・モリ」という言葉も、いわば座右の銘といってもいいくらいに身近な存在です。だからまあ、一度は書いておいた方がいいのかなあ、と考えたわけです。

「メメント・モリ」とは生の相対化である
「メメント・モリ」をそのまま訳せば「自分の死を忘れるな」「自分が死する存在であることを常に思い起こせ」といった意味になります。自分の死を忘れないということは、どのようなことなのか。どのような姿勢を人生にもたらすのか。
これは逆に「自分の死を忘れた人生」を考えてみると、わかりやすいかも知れません。おそらく多くの人々は、日常生活の中で「自分がいずれ死ぬ」ということを忘れて生きています。忘れているという言い方が強すぎるなら、目をそらしているとか、意識を向けていないという言い方でもいいでしょう。
なぜ「自分が死にゆく存在」だということから目をそらすのか。それはその事実が、耐え難いほど不愉快だからでしょう。
死ぬことによって自分の存在は無になる。しかしそれでも世界は続いていく。この事実を日々直視し続けるということは、自分の存在意義への脅威につながり、自分の生の絶対性を揺るがせます。だからこそ人々は、「自分は当面は生き続ける(いつまでかはわからないが)」ことを前提に、日々の生活を送り、将来設計を作り続けることになります。そして死に直面した瞬間に、自分が間違った前提に基づいていたことを悟るのです。
「メメント・モリ」を意識した生き方というのは、これとは正反対のものになります。
自分はいずれ無になり、その後も世界は回り続けるだろう。そしてしばらく経てば、自分が存在したことすら忘れ去られてしまうだろう。つまり自分の生というものは不安定である上、矮小なものに過ぎないのだということを認識せざるを得ないのです。
「メメント・モリ」を真剣に続けていくことは、自分の生の絶対性を疑い、それを相対化し続ける作業に他ならない。そして「明日も自分は生き続けるだろう」という根拠のない前提を、根底から覆すことになる。
前田慶次の「無苦庵記」にある
「生きるまでいきたらば
 死ぬるでもあらうかとおもふ」
ということばも、この感覚に近いのではないかと思います。
「自分の生の価値を過大評価するな」というのは、そういうことです。それではそれが、なぜ孤独につながるのか。生の絶対性を疑い相対化する姿勢は、必然的に他の前提条件への疑いへと、つながっていく可能性があるからです。

前提条件の設定で思考の範囲を狭めていないか
例えば「メメント・モリ」の「モリ」を、生物学的な死だけではなく「社会的な死」へと拡大したらどうなるか。それは例えば、会社員であれば解雇されるということかもしれないし、役職を持つ人ならその役職から追われるということかもしれない。学生なら就職できなかったということかもしれないし、自営業やフリーランスなら明日の仕事がないということかもしれない。
このような死は世の中の至るところに存在する。しかし私たちは、「自分の死を忘れる」ことと同じような姿勢を、これらの「より身近な死」に対しても取っていないだろうか。それはつまり、このような事象に対して次のように考えるということである。
「そんなことはあり得ない」
「そんなことは考えられない」
「そんなことは許されない」
「そんなことは選択できない」
「そうなったらもうおしまいだ」
このような考え方は、「自分が明日死んでいるなんて考えられない」というのと同じことであり、これは結局のところ「考えたくない」ということである。そして自分の視野の中から、その可能性を排除した上で、日々の生活を送ることになる。
特定の可能性を意識の中から排除するということは、その選択肢が取れないということであり、その選択肢に近づく可能性がある言動も避けざるを得ないということだ。例えば「会社の不正を告発したらクビになるかもしれない、だからそんなことはできない」というわけである。つまり1つの可能性を視野から外すことは、そのこと自体が1つの前提を創り出し、その後の思考もその前提に制約されてしまうのである。
失業などの「社会的な死」は、ひとつの例に過ぎない。このような姿勢を取る人は、他の可能性にも目をつぶるメンタリティを持つようになるのではないか。
例えばある集団や組織の中で受け入れられ、その中で高い評価を受けるには、その集団や組織が共有する価値観や考え方、文化などを受け入れ、共有する必要がある。そしてこれが、その集団や組織の中で生きていくための前提条件になる。そしてこの前提条件に外れた考え方は、自然と除外されるようになるだろう。
例えば電力会社の経営者やその周辺の人々は「原発停止などあり得ない」と考えるし、オリンピック誘致を推進する都知事とその周辺の人々は「誘致に消極的な都民はどうかしている」と考える。出版業界やその周辺の人々は「ネットで配信される情報なんてまったく信用できない」というし、一神教を信じる人々は他の宗教や宗派を邪教だと退ける。
考え方の選択肢を自ら狭めていく。このような傾向を持つ可能性が高くなるのだ。
もちろん前提条件を設け、思考の範囲をその中にとどめておくことには利点もある。それは思考に費やされるエネルギー消費が抑制されることだ。「あり得ないこと」「考えられないこと」を数多く用意しておけば、その可能性を吟味する必要がなくなる。意思決定が必要な場合でも、簡単に、短時間で、結論を導き出すことができるのである。
しかしそのようにして得られた結論は、往々にして間違っていることが少なくない。その「前提条件」を受け入れている人々の間では「正しい結論」になるかもしれないが、より広い視野で見れば「間違っている」ケースが多いのだ。例えばかつてのオウム真理教にとって、地下鉄にサリンをまくことは正義だったかも知れない。しかしそれ以外の人々にとっては明らかに間違った行為だった。
これと同じような陥穽は、実は私たちの身の回りに、数多く存在しているのではないだろうか。

前提条件を疑い続けるのは孤独な作業
話が飛躍していると感じる人もいるかもしれない。でも私にとって、このような思考は、「メメント・モリ」という言葉から自然と導き出されるものなんです。
くどいようですが、私にとってこの言葉は「死を常に意識することで生を相対化せよ」という意味を持っています。そしてそれは「排除している可能性を受け入れることで、あらゆる前提条件を相対化せよ」ということでもあります。
もちろんこのような姿勢で生きることが、簡単ではないこともわかっています。どのような集団・組織に入っても浮き上がることは必至だし(みんなが前提としていることに疑問を呈すると、なんと激しいバッシングをうけることか!)、結局のところひとりで生き抜くことを決意するしかない。
でもね、できる限りドグマ=前提条件に縛られず、自分のアタマで判断し続けるというのは、結局はこういうことなんだと思う。だからこそ「メメント・モリ」を座右の銘にすることは、孤独を受け入れることにつながっていくわけです。
繰り返しになっちゃいますが、次の言葉をよく使う人は(もちろん私自身も含めてです)、おそらく何らかのドグマに強く縛られている可能性があります。
「そんなことはあり得ない」
「そんなことは考えられない」
「そんなことは許されない」
「そんなことは選択できない」
「そうなったらもうおしまいだ」
あるいは「そんなことは想定外だ」という表現でもいいでしょう。
想定外の多い人は幸せです。限られた範囲の思考で、自分が納得できる結論に辿り着きやすいからです。そしてその思考の前提条件が他の人々と共有されていれば、仲間意識も持つことができ、孤独感に苛まれることもない。
でも私自身は、ドグマに縛られるよりは、孤独でいることを選択したい。そして自分の選択の結果は、できる限り自分で責任を持ちたい。
もちろん自戒の念をこめて、ということです。自分にはできている、というつもりはない。こうありたいと願っているだけです。
私が「メメント・モリ」という言葉で考えることは、こういうことです。もちろんあくまでも私個人の解釈であり、他の人の解釈を否定するつもりはありません。

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― posted by 大岩稔幸 at 10:55 pm

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