ウォッチ・ドッグ

wachdog



昨年末に新政権が誕生しました。
山崎さんの言葉に「政府は期待するものではなく監視するもの」というのがありました。
新政権に関して、とくに、どういったところを監視していけばいいのでしょうか。

期待せずに監視する対象は、政治というよりも政府でしょうね。その意味で、まず大切にしなければならないのは憲法です。これは、現在の日本国憲法を墨守せよという意味です。このことが今年の課題です。

一般論として、憲法というのは、そもそも政府を監視するための法律であることを国民が今一度理解しておく必要があるということです。

憲法は、 国家権力が個人の自由に介入しないことを目的として定められたものです。

では、その憲法の精神に則り、誰がどのように政府を監視していくのかといえば、やはりマスメディアの役割が大きいと思います。

私達は日々の生活に忙しくて、政府を継続的に監視することはできません。果たして、日本のマスメディアは、ウォッチ・ ドッグとして機能しているのでしょうか。それは、どうもそうではないようです。

2012年の出版界の一つの特徴はメディア批判本であったように思います。

まず、1月17日に元日本経済新聞記者の牧野洋氏の「官報複合体 権力と一体化する新聞の大罪」(講談社)が出版されました。

2月25日には、元共同通信記者の青木理氏、「ビデオニュース・ドットコム」を主宰されている神保哲生氏、そして元北海道新聞記者の高田昌幸氏の共著として「メディアの罠 権力に加担する新聞・テレビの深層」(産学社)が出版されました。

さらに、7月4日にはニューヨーク・タイムズの 東京支局長、マーティン・ファクラー氏の「「本当のこと」を伝えない日本の新聞」 (双葉新書)が出ました。

つい最近も、12月3日に前述の牧野氏と衆議院議員の河野太郎氏の共著として「共謀者たち 政治家と新聞記者を繋ぐ暗黒回廊」(講談社)が 出版されました。

こうした本のサブタイトルをみれば、本の執筆動機は明らかでしょう。本来は、権力の監視役としての役割を期待されているマスメディアに対する強い危機感です。こうしたメディア批判本が2012年に集中したことには理由があると思います。

それは、東日本大震災、特に原発事故の報道により、執筆者達の危機感が閾値を超えたということでしょう。これは、発言せざるを得ないと。

ところで、こうした本はどの程度の読者に読まれているのでしょうか。Amazonのランキングをみると、「官報複合体」は102476位(12月18日現在)です。この本は、たいへんな力作であると思ったのですが、売れ行きはあまり芳しくないようです。

「メディアの罠」は、75404位(同)です。これも非常に勉強になる本でしたが、あまり 本屋で見かけることはありません。この両著の書名と著者の名前で記事検索をかけましたが、主要日刊紙では一度も紹介されておりません。
メディア批判本の宿命といえば宿命でしょうが、マスメディアで紹介されないのです。

結局、こうした問題意識が 広く国民に共有されることはありません。

本の内容を、この欄で紹介するときりがないので、興味のある方はお読みください。 こうした問題意識を共有することからも、政府の監視が始まるのではないかと思います。

                 


ウォッチドッグ
別名:ウォッチドッグタイマー
【英】watchdog
ウォッチドッグとは、システムが正常に動作しているかどうかを監視するためのデバイスの総称である。
ウォッチドッグは、システム上で動作しているそれぞれのアプリケーションに定期的に信号を送らせている。一定周期を経過してウォッチドッグに信号を送らなかったアプリケーションがあれば、そのアプリケーションがハングアップなどの異常状態に陥っていると判断し、CPUに割り込みをかけてアプリケーションを停止したり再起動したりする。
また、インターネット上のウェブサイトを監視するツールのことをウォッチドッグと呼ぶこともある。この場合のウォッチドックでは、定期的に監視先のウェブサイトをアクセスしたり、そのレポートをオンラインで閲覧することができるようにしたりしている。

― posted by 大岩稔幸 at 09:11 pm

謹賀新年 

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屋久島 神代杉

日本人のDNA  
未来を信じて   


 日本には強くなってほしい。このところ切実にそう思う。もちろん軍事力のことではない。核兵器などという使えもしない装備で国を守ろうとするのは北朝鮮レベルの弱い国だ。

 核兵器以上に「侵しがたい」と思わせるもので防衛されなくてはならない。強い国とは、外に向かって打って出る力のことではなく、この「侵しがたい」何かによって守られている国のことだ。

 外側から「侵しがたい」と思わせるものは、自国民によってまず、日本の、日本人のアイデンティティーとして、意識されなくてはならない。

 戦後の日本には、とりあえず経済力があった。エコノミックアニマルなどと嫌悪されても、お金を持っていることは強かった。けれど中国の台頭により、このアドバンテージは失われた。

 私は失われたとは思っていないけれど、そう考える日本人は多いと思う。経済力を一国の数値で比較すれば、国内総生産(GDP)で中国に追い抜かれ、今後も回復は難しいだろうが、経済力が何のために必要かと言えば、個人の生活を豊かに平安に保つためだ。

 GDPを一人アタマに換算して中国に追い抜かれたときは、負けを認めなくてはならないが、国家単位でしか経済力を見ることができない人にとっては、日本はすでに追い抜かれてしまったのだろう。

 人口が十倍の国には、優れた人間も劣った人間も十倍いる、という自明のことを忘れ、怯(おび)えたり驕(おご)ったりするのは愚かなことに思える。

 いっときも早く日本人は、新たなアイデンティティーを持たなくてはならないが、そのためには、もっと地に落ちる必要があるのかも知れない。持てるものをすべて失ったとき初めて、自分たち日本人の身に備わったDNAが自覚される、ということに期待したくなる。

 日本人は、歴史的な権力の委譲である明治維新において、江戸城を無血開城した国民である。二つの原爆を落とされ、無条件降伏をしたあとのアメリカによる占領に、憤怒を隠して服従したかといえば、「過ちは繰り返しませぬから」と主語の無い反省の言葉を原爆慰霊碑に刻み、アメリカへの報復を考えなかったどころか、魅了されていった。

 アメリカの占領政策がうまかったとはいえ、これが中国や韓国であったなら、恨みは世代を超えて末代まで継承されたに違いない。表面的に屈することで、内なる炎は身を焼いただろう。

 この日本人の淡泊さを「忘れやすい平和ボケ」だとネガティヴに考えることには私は反対である。ことが決着したあとはすべてを水に流す、実はこれこそ、日本の自然が育んだ誇るべきDNAではないのか。だから戦後の繁栄があったのではなかろうか。

 中国五千年の権力闘争の歴史からくる自国民への不信感や、「恨(はん)」を抱えたまま南北がいまだ戦争状態にある朝鮮半島の現状を思うとき、日本人の本質が逆に浮かび上がってくる。

 戦争中に日本は大陸および半島の人々に酷いことをした。それは原爆二つより過酷だったのかも知れないが、日本人は恨みを捨て、中国韓国は捨てずに燃やし続けている。そこには、敗戦国という理由だけでは説明できない何かがある。

 この違いがどこから来るのかを深く考えていくことで、経済力を失ったあとの日本人のアイデンティティーが生まれてくるのではないだろうか。


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ダイアモンド富士























2013.01.01
高知新聞朝刊
作家・高樹のぶこ(たかぎ・のぶこ)
46年山口県生まれ。東京女子短大卒。

― posted by 大岩稔幸 at 06:53 pm

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