謹賀新年2011

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卯(う)の年が明けた。年年歳歳というけれど、またいつもの年の暮れがあったし、またいつものお正月が巡ってきた。

年越し、年明けに人は何かを思う。それぞれの家がそれぞれの流儀で行事を行い、きょうの日を迎える。人はなぜこのように、毎年同じことを繰り返すのか。明治の文豪・幸田露伴が、面白いことを書いている。

「一年に四季があってひと巡りして来たところで、樹木も年輪というものが出来るのである」。だから年ごとに重ねるはずの年輪がぼんやりすると、妙に締まらない。「竹に節が無く、網に結び目の緩いようなもの」になる。

そこでこの博覧強記の文豪は、「年の関」というものを仮定する。そしてその関へかかった時に、「一寸思い入れがあって関門を通った方が面白そうだ」(「新年言志という事について」)。一年の計は元旦にあり、というやつだ。

大きな計画、高い目標を掲げるのもよろしかろう。神社にお参りに行って、「無病息災、家内安全」と地道な願い事をすることだって、立派な新年の思い入れだ。政治も経済も社会も、めまぐるしく移り変わる時代。予想を超えたことも起きるだろう。

〈初夢や 金も拾はず 死にもせず〉。夏目漱石のとぼけた句だ。平々凡々何事もないが、命のあることに感謝する。新年早々景気のいい話にはならなかったが、この句の心境が案外、庶民の心を言い当てている気もする。






高知新聞 小社会
2011.01.01

― posted by 大岩稔幸 at 12:04 am

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