患者さま

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ここ数年「患者さま」と呼んでいる医療機関が増えている。最近の学会発表を聞いていると若い先生は、対象者の提示に「患者さま」と言うことが多い。医療はサービス業であるという考え方が普及していること、マスコミ報道のあり方が医療者側に過剰な防衛姿勢をとらせていることが背景にあると思う。

しかし、我々が行った患者満足度調査の結果によれば、多くの患者さんたちは「患者さま」と呼ばれたいとは感じていない。ともすれば「巧言令色鮮仁(こうげんれいしょくすくなしじん) ※」1)になりかねない過剰な接客業用語は、むしろ患者さんを遠ざけたりすることになりかねない。

私が敬愛する作家でもある徳永先生は、ある雑誌の対談の中で「患者さまという呼び方は、患者の本当の悩みと向かい合う気持ちがなくなったことをごまかす形骸化したものではないか」2)と述べていた。先の患者満足度調査結果の中で、患者さんたちは「’患者さま’と呼ぶ前に患者に対する応対や態度を変えないといけない」と回答していた。

我々の分析によれば、患者さんたちが本当に求めているのは「よく訴えを聴いてくれた」「わかりやす説明」を通じて、共感(患者さんの気持への反応、ねぎらい、がんばったことへの称賛など)の信頼関係=ラポールであった。

まずは、「患者さま」と呼ぶことをやめることが、患者満足度への道であると考えている。近い将来、過剰な敬語や「患者さま」と呼んでいる医療機関ほど患者視点よりも利益を優先していることや、患者満足度が低いことを数量的に明らかにしたいと思う。


※巧言令色鮮仁・・・巧みな言い方や言葉や華やかな言葉には仁(心・思いやり)が少ないという意味。孔子の言葉。

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参考:
1)R AD-AR NEWS,No76.2006年10月 P12-13
2)論座,No23. 2004年10月 P8-21

http://blog.carenet.com/cs/entry/2006/11/001657.php?SID=5085489579226983 Link

― posted by 大岩稔幸 at 11:56 pm

病気の販売

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薬はよりどり、病は金から
レイ・モイニハン(Ray Moynihan)
医療ジャーナリスト
(ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル、ランセット、
ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディシン各誌に寄稿)
アラン・キャッセルズ(Alan Cassels)
ヴィクトリア大学医薬品政策研究者、カナダ
訳・瀬尾じゅん
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原文

 30年ほど前、世界有数の製薬会社の経営者が語るに落ちる発言をした。メルク社の意気さかんなCEOで、引退間近だったヘンリー・ガズデンがフォーチュン誌で、自社の潜在市場が病人のみに限定されていることが残念だと、そんなふうに語っていた。彼としては、メルク社をチューインガムのリグレイ社のようにしたかったのだ。ガズデンは、かなり以前から健康な人向けの薬を作ることを夢見ていたとはっきり言った。なぜなら、そのときこそ、メルク社は「すべての人に自社製品を売る」ことができるようになるからだ。30年後、今は亡きヘンリー・ガズデンの夢が実現される。

 トップクラスの製薬会社のマーケティング戦略は、今や健康な人をがんがん狙い撃ちにする。日々の生活の浮き沈みは精神障害となり、よくある不調の訴えは恐ろしげな疾患とされ、普通の人々がますます病人へと変えられていく。売上5000億ドル規模の製薬産業は、販促キャンペーンを通して我々の心の奥底の恐怖を利用する。死、肉体の衰え、そして病気である。製薬産業は、人間らしくあるとはどういうことかの定義を文字どおり変えようとしているのだ。人の生命を救うことや、病状を和らげることで正当な対価を得てきた巨大製薬会社は、薬を必要としている人たちに売るだけではもはや満足しなくなっている。理由は単純明快きわまりない。ウォールストリートでは常識となっているように、健康な人に向かって「あなたは病気です」と言えば、いくらでも稼ぐことができるからである。

 先進国に住む人々の大半が自分たちの祖先とくらべて、より長く、より健康に、そしてより元気に生きていくことができるこの時代、圧倒的な広告キャンペーンあるいは意識向上キャンペーンによって、体調を心配する健康な人たちはあっという間に不安いっぱいの病人たちに変えられてしまう。ささいな問題が重大な疾患だということになり、内気は「社会不安障害」に、月経前のいらいらは「月経前不快気分障害」と呼ばれる心の病気にされてしまう。症状が出るかもしれない「リスク」を保有していることも、それ自体で立派な病気ということになってしまうのだ。

 このような販売方法の発信地は、多国籍製薬会社がひしめくアメリカである。人口は世界の5%に満たないのに、すでに処方薬市場の50%近くを占めている。健康関連の出費は世界中のどこよりも急激に増加していて、6年間でほぼ100%の伸びを見せている。それは単に医薬品がどんどん高額化しているからだけではなく、医師が処方する薬がますます増えているからでもある。

 マンハッタンの中心部に構えたオフィスを拠点とするヴィンス・パリーは、世界をまたにかけたマーケティング戦略の最先端をひた走る。広告のエキスパートで、医薬品を売るための最高に洗練された方法を手がけ、製薬会社と協力しながら新しい病気を作り出している。パリー氏は最近、「心身の状態を類別する」というタイトルの驚くべき記事で、医学的疾患の「創出を促進する」ために製薬会社が使う手管を明らかにした(1)。ときには、一般的に知られていない心身状態に改めて人々の耳目を引きつける。ときには、以前から知られていた病気を新しい名前のもとに定義しなおす。あるいは、何もないところに新種の体調不全を作り上げる。パリー氏が個人的に気に入っているのは、勃起不全、成人の注意欠陥障害、そして先に述べた月経前不快気分障害である。この最後のものは大変な論争の的になっており、症候として認めない研究者もいる。

 パリー氏は稀有の率直さをもって、製薬会社による類別と定義のやり方を解説する。その対象は、プロザックやバイアグラのように成功を収めた製品だけではない。こういう医薬品が売れるような市場を創出する前提となる人々の体調もまた、類別と定義の対象にされているのだ。

とんでも業界レポート

 製薬業界のマーケティング責任者の指揮下で、医療関係者とパリー氏のような第一人者が結託して、「病気と健康状態についての新たな思考を生み出す」ために知恵を絞っている。彼いわく、目標は世界中の顧客がこうしたことについて新しい捉え方をするようになることだ。そこで常に目指されるのは、売上を最大限に伸ばすような方法で、健康状態と医薬品の関連を確立することである。

 多国籍製薬会社が新しい病気を作り出すのに加担しているなどという考えは、多くの人にとって奇妙なものだろうが、業界内では常識である。製薬会社の経営者向けに出された最近の『ビジネス・インサイツ』のレポートは、「新たな病気の市場の創出」能力が数十億ドル規模の売上につながると述べている。最も有効な戦略の一つは、このレポートによれば、自分の症状についてあまり深刻に考えていない人々の認識を変えることだ。「これまではせいぜい不快にすぎないとして我慢されていた問題」が、「医療の対象に値する」ものだと「納得」しなくてはいけない。このレポートは、新種の健康障害に結びついた市場の発展を称揚し、製薬業界の未来の業績はバラ色だと持ち上げる。「今後の数年間は、企業が出資した疾病の創出が急拡大する時代となるだろう」

 不調というのはピンキリであるから、健康な人と病人との間にはっきりと線を引くことは難しい。「尋常」と「異常」の境目は、多くの場合、伸縮自在である。国によって極端に違うし、時代によっても変わる。しかし、病状の定義の範囲を広げれば広げるほど、思い当たりがあるという潜在的な病人の数が増え、製薬市場がますます広がっていくことははっきりしている。

 治療の手引きを書く医療関係者が、その書き方に応じて潤うことになる製薬業界から、報酬をもらっている場合もある。これらの手引きによれば、年配のアメリカ人の90%が「高血圧」と呼ばれる障害に苦しんでいるし、アメリカ人女性の半数近くはFSD(女性性機能障害)を患っているという。また、4000万人以上のアメリカ人は、コレステロール値が非常に高く、対処を必要とする。最新の健康問題は、大きな記事にできるネタを探し回っているメディアによって、多くの人々に関わる重大な、しかし医薬品のおかげで治療可能なものとして、定期的に報道される。医薬品の激しい売り込みと歩調をそろえるべく、そうした健康問題の理解と治療にいたる道はほかにもあることや、推定患者数がもっと低いと考えられることは、ほとんどの場合、あまり大きく取り上げられずに終わる。

 医療関係者に高額の報酬が支払われているからといって、必ずしも金で影響力を買っていることにはならない。しかし、医師と製薬業界が緊密すぎる関係を作り上げていると見る者も多い。

 病気の定義が拡大されているのとは対照的に、そうした「病気」の広がりの原因は、極力狭く捉えられている。この業界のマーケティングの世界には、循環器系の病気のように重要な健康障害は、とにもかくにもコレステロール値、あるいは血圧だとするアプローチがある。年配の人に見られる股関節部の骨折の予防のために、健康な中年女性は骨密度を気にするべきであり、気分が落ち込むのは、脳内の化学物質セロトニンのバランスが崩れたせいなのだ。
あれも恐いし、これも恐い。

 物事のある部分にだけ注意を向けすぎると、一番重要な問題は何なのかが見失われてしまう。そのせいで、個人や社会が不利益を被ることになる場合もある。たとえば、第一の目的がもし健康の向上にあるのだとすれば、健康な人向けの高価なコレステロール降下剤、あるいは禁煙キャンペーンに投じられている莫大な投資のせめて一部を、運動を奨励したり、食事のバランスを向上させるために使ったほうが効率的ではないだろうか。

 病気の「販売」には何とおりものマーケティング・テクニックがあるが、今も昔も最も広く用いられているのは、恐怖を利用したマーケティングである。心臓発作の恐怖を利用して、更年期の女性に代替ホルモンを売り込み、ちょっと気分が落ち込んだだけの若者の親には、自殺への恐怖を利用して、それが大変な治療を要する状態だという考えを売りつける。コレステロール値に応じてすぐに降下剤の処方が出されるようにするために、早すぎる死への恐怖を利用する。しかし皮肉なことに、派手に宣伝される医薬品が、予防するはずだった害をもたらすこともある。

 ホルモン補充療法は女性の心臓発作の危険を増大させる。抗鬱剤を使う若者は自殺願望が強くなるように見受けられる。非常によく売れたコレステロール降下剤のなかには、「患者」の死亡を引き起こしたために市場から回収されたものが少なくとも一つある。最も深刻なケースの一つは、よくある腸の病気のために飲んでいた薬が極度の便秘を引き起こし、そのために複数の人が死亡したというものだ。しかし、このケースでも他と同様、政府の規制関係者は、公衆衛生よりも製薬会社の利益を守るほうに固執しているようにみえる。

 1990年代終盤、アメリカで広告の規制が緩和されると、製薬会社のマーケティングはかつてないほどの猛攻撃を開始した。一般向けに、一日に10本は下らないテレビCMが流れるようになった。ニュージーランドのテレビ視聴者にも同じ運命が待ち受けている。その他の国々でも、製薬ロビーが同じような規制緩和を求めている。

 今から30年以上も前に、イヴァン・イリッチという名の異色の思想家が警鐘を鳴らした。医療体制の拡大は、人が病気や死という現実に向き合う能力を侵し、ごく普通の人々をやたらに病人に変えてしまうことにより、生そのものを「医療化」しつつあるというのである。彼が批判したのは、「病気でない人々、どうみても回復の可能性のない人々、医者の治療が患者の伯父、伯母の行う治療ほどにも有効でない患者たち、こうした人々に対しても権威を要求する」医療制度である(2)。

 もう少し最近では、医療ライターのリン・ペイヤーが、「病気の売り歩き」のプロセスについて書いている。つまり、患者の数を増やし、商品化する医薬品を増やすために、医師と製薬会社が疾患の定義をむげに拡大しているやり方のことである(3)。マーケティングのわめき声が大きくなり、多国籍企業が医療制度に対する支配を固めるにつれて、これらの著作の内容はますます的確なものとなっている。


*近著 Selling Sickness. How Drug Companies Are Turning Us All Into Patients, Allen & Unwin, Crows Nest (Australia), 2005 からの抜粋。

(1) Vince Parry, << The art of branding a condition >>, Medical Marketing & Media, London, May 2003.
(2) イヴァン・イリッチ『脱病院化社会』(金子嗣郎訳、晶文社、1979年)参照。
(3) Lynn Payer, Disease-Mongers : How Doctors, Drug Companies, and Insurers Are Making You Feel Sick, John Wiley & Sons, New York, 1994.

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2006年5月号)

All rights reserved, 2006, Le Monde diplomatique + Seo June+ Saito Kagumi

http://www.diplo.jp/articles06/0605-5.html Link

― posted by 大岩稔幸 at 10:42 am commentComment [1]

苦いコーヒー

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もともと、「苦味」は動物にとって毒の味であり、その味を嫌う習性が身に付いているそうだ。

人間は本能の壊れた動物だといわれるが、そうした論拠の一つに「苦味」を好む事があげられることが、しばしばあるようだ。

毒とはそれを飲み食いすれば、苦しみや命の危険、さらには死に結びつくものである。生命維持の上でもっとも重要な「食」の判断基準となるものが「味」であり、動物の持つ「味覚」だからだそうだ。

たとえばアミノ酸の一種「グルタミン酸」は脳の神経伝達に重要なもので、化学調味料の主成分でもあるのだが、その「グルタミン酸」などを含む味を表す言葉「旨味」は日本の学者が昆布の味覚成分の中に、このグルタミン酸の化合物を発見した後になって一般化したものだそうだ(このあたりの詳しいことは『味の素』のHPに詳しくあるかもしれない)。

それに反して、「苦味」の歴史は古いものだ。その味は人間にとってさえ苦しみを連想させるものであることは、この「苦」という漢字が表している通りであろう。他の味覚を表す漢字では「辛味」が準じているようだが、「辛抱」が比較的前向きな意味合いであるのに対しても「苦労」はけして美味しい印象はない字面に間違いないだろう。

ならばなぜ人間は「苦味」を美味の一つとして受け入れたのだろうか? ひとつの考え方として、人間には出産時の記憶が残っているからだという。これは母親のみではなく産まれてくる嬰児もまた共同体験として持っているはずだとするものだ。

よく「臨死体験」という話に暗くて長いトンネルとその先に明るい光の世界があるといわれるが、これこそが嬰児時代の出産誕生体験の記憶によるものだとする考え方があるらしい。

「臨死」とは死の瀬戸際の苦しみの中であることから、胎児以来初めて最も苦しかった原初体験である記憶が蘇るのではないかというものだ。

つまり、苦しみを経た先に明るい外の世界が待っている事を記憶している人間は、そうした体験を追体験することに喜びを見い出すというものらしい。

作曲家ベートーヴェンが心酔した「苦悩を経て歓喜に至る」という思想もまた同様な発想によるものと思われ、そのベートーヴェンが無類のコーヒー好きだったことはそうしたことから考えると、なにやら無縁ではないように感じられる(彼はコーヒー1杯に豆50個を厳守していたそうである)。

たしかにその前のモーツァルトの音楽からは「苦い」音はなかなか聞こえない。さしずめクリームをたっぷり注いだ当時流行の「スイス風コーヒー」のように苦味はまろ味を引き締めるアクセントくらいのものだろうか? 

ベートーヴェンの音楽の音は確かに「苦い」。深煎りコーヒーに粒砂糖を入れ、混ぜずにちびちびと飲んでいくうち、最後にやってくるこのうえない甘さは、彼の音楽の華々しいフィナーレそのものかもしれない。

なにはともあれ、「人間が苦味を好む謎」を解くのは学者諸氏にまかせるとして、私達は美味しいコーヒーを味わいながら、お気に入りの名曲を楽しませてもらうことにしよう。


http://www.geocities.jp/go5ka2/table2-1.html Link

― posted by 大岩稔幸 at 12:40 am

身体に悪い音楽

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最近、日本酒を仕込む酒蔵ではモーツアルトの音楽が流れているそうである。なんでも「麹菌」の発育によいそうで、同じようなことが人間にもあてはまるらしく、そうした特別番組がテレビで放映されたこともある。

なんでもモーツアルトの音楽はヴィヴァルディの『四季』と並んで「高周波・ゆらぎ・協和音」のバランスが最もよいのだそうだ。さしずめ「身体に良い音楽」ということになろうか。

では「身体に悪い音楽」というと、なにかということになるが、イメージの上ではハードロック、ヘヴィメタルetc. 90年代の若者に流行した音楽が頭に思い浮かぶが、確かに当時、植物にこうした音楽を聞かせて発育状況を観察する実験がなされ、明らかに枯れるのが早かったということだ。前出のモーツアルトの音楽が麹菌の発育によいというのもこうした実験の積み重ねの上に出て来た結果であるらしい。

裏返しで「低周波・規則的・不協和音」の多い音楽が身体に悪いということになるが、まさにそうした音楽を書いたのがバッハである。実際、90年代にされた植物実験で、バッハのオルガン曲を流し続けたところ、ハードロック、ヘヴィメタルと同じく枯れるのが早かったということだ。『G線上のアリア』のニックネームで有名な、あの宇宙の調和を表現したかのようなたおやかな名曲、バッハの管弦楽組曲第3番に含まれる『アリア』にしても不協和音の点ではあまり変わらないということらしい。

ところが、そんな身体に良い音楽を数多く残したモーツアルトはといえば、35歳で夭折してしまい、バッハは同時代の作曲家で友人でもあったテレマンの86歳には及ばないものの、衛生状態が良いとは言えない当時に65歳まで生き延びている。

身体に良い音楽を書いた作曲家が、身体に悪い音楽を書いた作曲家より短命というのは、まことに皮肉なことだが、さらにバッハは愛煙家で、自ら作詞、作曲した『パイプの歌』というリートでは、パイプ煙草への愛着と信心深い考察が安らかなメロディーに乗せて語り歌われる。まさに『健康増進法』が施行され、分煙の名の元に公共施設から追い出され、社会の隅へと追いやられる愛煙家にとって『ささやかな抵抗歌』となりえるものである(笑)。

確かに健康によいものはよいもので、その作曲者が若死にであろうがなかろうがその恩恵に浴するのは我々の特権なのだが、もっともそれは「健康のためなら命を捨ててもかまわない」とでも言うべき現在の健康至上主義的な(精神衛生上はいかにも良くなさそうな)発想でなければの話だろう。

若々しい身体を維持する基本は適度な運動だが、その本質は「筋肉を使って適度に細胞を壊す」ことであって(ちなみに「壊れずに成長し続ける細胞」とは癌細胞のことである)無刺激、無菌状態におくことではないようである。

酒蔵で流す音楽でバッハが選ばれなかったのはその音楽に多く含まれる「不協和音」のせいで「雑菌」が繁殖しやすくなるためなのだそうだが、実際の所、人間は酒蔵で暮らすわけではなく、酒蔵では雑菌でも住宅の中では「常在菌」と名を変えるものも多くあるはずだ。

ところで人間は体内に善玉菌と悪玉菌を養っていて、悪玉菌を減らすことが良いのだとしきりに叫ばれているが、実際はそれほど単純ではないようで、悪玉菌が少なすぎる状態が長く続くと身体の抵抗力が弱まり、かえって微量の悪玉菌が体内に入り込んだだけで体調を崩してしまうこともあるらしい。つまり、いざという時のワクチン(抗体を作らせるための毒素)として悪玉菌を身体の中で養うシステムが出来上がっているということらしい。

さしずめバッハの音楽はこうした悪玉菌を元気にさせて、自らの抵抗力を養う「聞くワクチン」ということになろうか? いずれにせよ、バッハよろしく『美味しい煙草に火を付けて…』吸いすぎと聞きすぎに注意して、ほっと、ひと息つくことにしよう。

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http://www.geocities.jp/go5ka2/table2-2.html Link
身体に悪い音楽 〜煙草好きのバッハ〜

― posted by 大岩稔幸 at 09:58 pm

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