日本文化とは何か

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 1972年の3月21日に、奈良県明日香村の桧前(ひのくま)で、高松塚壁画古墳が検出されてから35年となる。その30年のおりの記念シンポジウムが東京で開催されたおりの、網干善教さんの衰えることのない高松塚への情熱をいま改めて想起する。

 壁画のカビがひろがり、あのあざやかな壁画も劣化いちじるしく、ついに石室の解体保存となったが、天井石の四枚すべてに亀裂のあることが判明した。その完全な修復による現地での保存を願うばかりである。

 高松塚壁画古墳をめぐって、その壁画のルーツが高句麗か唐か、激しい論争が展開されたが、青竜や女人像の服装などには高句麗の影響があるけれども、男性像などには唐の影響があり、その検出の当初から、私は高句麗も唐もという立場をとってきた。副葬品に唐の海獣葡萄鏡があったことがみのがせない。そして女人像の髪の生えぎわをリアルに描写している画法には、あたかも大和絵の趣向かと思われるほどの日本化の要素もあった。

 高松塚の築造年代は8世紀初葉、キトラ壁画古墳の場合は7世紀後半とみなす説が有力だが、この時期は美術史の側からおおむね白鳳文化とよばれている時代である。キトラのあの躍動的な朱雀にも、唐や高句麗の影響をベースに、日本化へのおもむきがうかがわれる。

 飛鳥文化のあと白鳳文化に入ると、日本らしさがいろいろな分野できわだってくる。神々の社を天つ社、国つ社に分け、それまで各地にあった祓(はらえ)を国の大祓として体系化し、飛鳥寺や百済大寺が官寺化したのは天武朝であった。即位式だけではなく、新嘗祭(にいなめさい)を拡充した大嘗祭(だいじょうさい)や伊勢神宮の式年遷宮が具体化したのも持統朝であった。

 大宝律令が完成して施行されたのは文武朝だが、その内容は唐の法律を母法としながらも、日本独自の要素を加味している。そのことはたとえば唐の祠令(四十六条)と日本の神祇令(二十条)を比較しただけでもわかる。わが国の神祇令では天神の祀と地の祭の区別が明確ではなく、サクリファイス(犠牲)の規定は皆無である。即位・大嘗・大祓などの条文はあっても、孔子をまつる釈奠(せきてん)の礼は、学令に見るにすぎない。

中国風の位牌名が、明・浄・正・直など日本の位階になったのは天武朝であり、その官号が飛鳥浄御原宮と命名されたとおり、浄の美意識がたかまってくるのも天武朝からであった。万葉仮名が7世紀のなかばに使われていたことは、難波宮出土の木簡によってたしかめられるが、万葉仮名を使ってのうた(倭歌)の隆盛も白鳳文化においてであった。漢詩、漢文学に対するヤマトの文学は、天武・持統朝を中心に活躍した柿本人麻呂の登場にも象徴されている。

 高松塚壁画古墳出土35年の今日、日本文化とは何かをしみじみと追想する。

日本文化とはなにか
上田正昭
(京都大学名誉教授)


2007年4月28日
高知新聞夕刊

― posted by 大岩稔幸 at 10:06 pm commentComment [1]

男の手のひら

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黒人(くろんぼ)の兵隊さんが眠(やす)んでいる
その傍(かたわら)でドニーズはこころしみじみ眺めてる
自分のあそこを撫でたので
それでそこだけ桃色にぱっと染まった
男の掌(て)                     
                     堀口大学訳

ジャン・コクトーの最初期の詩集『寄港地(エスカール)』にある「黒人と美女」と題する愛すべき小品である。

男性の肉体の中で、最も男性的な部分は、どこだろうか。ある人は感情の表示板たる顔をあげ、ある人は思考の中枢である頭脳をいい、またある人は心のありかに擬せられている心臓をさすかもしれない。それらのひとつひとつについて異議をさしはさむものではないが、手もまたこれらにひけをとらず、われこそ最も男性的な部分と主張できると思われる。

ジャン・コクトーの「黒人(くろんぼ)の兵隊さん」が書かれたのは1920年だから、この兵隊さんはおそらく仏領アフリカのどこかから徴兵された黒人兵で、休暇かなんぞでマルセイユあたりの妓楼に登っているのだろう。

だからドニーズというのは、相方の若い娼婦でもあろう。男は安心しきって上を向き、握った手を半開きにして、安らかな寝息を立てている。その半開きの桃色の手のひらを見て、ドニーズは「自分のあそこを撫でたので/それでそこだけぱっと染まった」のだと、納得している。ほんとうは、ぱっと染まったのは撫でられたがわの自分の「あそこ」かもしれないのに、それを逆に撫でたがわの「男の掌」と強引にいっているところが、この詩のおもしろさであろう。

けれども、この詩にいうとおり、男の掌だって赤くなるかも知れない。その赤くなりかたは、ひょっとしたら女の「あそこ」以上かもしれない。その手は、女のよろこびをつくり、愛の結晶をつくるおおもとになる手だが、そのつくる行為の第一原因は、男の含羞であるかもしれないのだ。

べつに「黒人の兵隊さん」に限らず、男の手というものは一旦仕事を離れると、急にあどけなくなったりする。節の太い指の先にある半月のくっきりした健康そうな瑪瑙色の爪が、育ちのいい坊ちゃんよろしく深爪に切り込んであったりすれば、なおさらである。こんな手の表情をみると、顔の表情を見る以上にセクシーである。

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「代用品」
目は口ほどにものを言い
手はあれほどにことをする
   堀口大学「月かげの虹」

― posted by 大岩稔幸 at 12:47 pm

いじめ

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栃木の中学生自殺で東京高裁は、いじめを「阻止せず傍観した級友の卑怯(ひきょう)な態度もー因」と指摘し、江見弘武裁判長は判決で「卑怯」という言葉を使ったのが目に付いた。

「弱い者がいじめられていたら、身を挺してでも助けろ、見て見ぬふりをするな、卑怯者と言われるな」などと、最近は義侠心ということを教えなくなったし、また卑怯者という言葉も消失して久しい。

戦前の反動で帝国主義的侵略に結び付いたものを捨てたのはいいが、武士道というよいものまで捨ててしまった。軍国主義と武士道精神は違うのに…。

大勢で一人を制裁することは卑怯だ。だからダメというのは論理的に説明できるものではない。「ダメだからダメ」と大人が子どもに断固としてたたき込むべきであるが、そのような大人がいなくなった。

今や日本中が「勝ち馬に乗れ」となっている。強い集団に入って弱い者をやっつけて生き残るという知恵が常識のようになってしまった。大人の世界がいじめ社会になっている。中央が地方を、大企業が中小企業をと…。

新自由主義の経済体制自身が弱い者いじめになっている。みんな公平に闘うのだから、勝った方が全部取って何が悪いのかということなのであろう。世界中が今「公平」という言葉に酔っているようだが、私はそんなことは絶対に信用しない。

例えば小学6年生と1年生が“公平″に闘うなんてことを絶対許してはいけない。どうしても、というなら一年生にハンディを与えなければならない。

同じように地方、中小企業にはハンディが必要である。ハンディなしに公平に闘うというのは、実は不公平なことである。

数学者でエッセイストである藤原正彦著「国家の品格」は金権が横行し、羞恥(しゅうち)心を失った日本社会に「品格」という言葉を投げ込み、衝撃を与え、大ベストセラーになった。そして「品格」は06年の流行語大賞となった。

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― posted by 大岩稔幸 at 11:29 pm

男の背中

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男の背中の重要性については、古代人たちもとうから気づいていたらしい。

中世ゲルマン民族の『イーリアス』といわれる『ニーベルンゲンの歌』は、じつは背中の悲劇である。英雄ジークフリートは悪竜を退治したその血を浴びて不死身となったが、血を浴びたさい、背中の一か所に落葉がはりついていて、そこが急所となった。

ジークフリートの妻クリエムヒルトは狩りに出る夫を思うあまり、同行の自分の一族のハゲネに夫を守ってもらうために急所を教えた。ハゲネはジークフリートが自分のほうに背中を向けて泉の水を飲んでいるすきに、槍を取って急所を刺した。
                      
ジークフリートの死を知ったクリエムヒルトは夫の仇を倒すために民族の敵であるフン族の大王に嫁ぎ、ハゲネを含む自分の一族をフン族もろとも滅ばし、自分も殺されてしまう。

このようにも激しいクリエムヒルトの夫に対する愛は、夫が槍の穂先の致命傷を受けたのが背中であったことによって、大きな説得力を得ている。

ハゲネとともに狩りに出る夫にクリエムヒルトは上着を着せかけてやったろうが、その上着の背中には彼女みずからが縫い取りした十字のしるしがあった。ハゲネに守ってもらおうとてつけたそのしるしを、彼女の指は何度もいとおしさをこめて愛撫したことだろう。

愛する夫の不慮の死を聞いたとき、クリエムヒルトの目に最初にちらついたのは、夫の背中であったにちがいない。彼女は自分が見送った夫の背中を思い、その背中にするどい槍が突き刺されて夫が後ろ向きに絶叫するさまを思ったであろう。
                               
記憶の中の夫の背中を見たとき、彼女は夫の名を呼ぶかわりに、復讐を誓ったのである。

こんな悲劇的エピソードを持つ背中について、私は最近、興味ある話を聞いた。話をしてくれたのは、さる指圧の先生である。

先生のいうところによると、中国古代に黄河流域でまとめられた医学の古典で、鍼灸指圧の聖典とされている『黄帝内経(こうていだいけい)』というむずかしい本によると、人間の背中は陰陽五行説のいわゆる陽だという。

これに対して前面は陰である。その証拠に同じだけ太陽にさらしても、背中のほうが早く灼ける。しかし、おもしろいことに、陰のツポはすべて陽である背中にある。
           
だから、お腹の中の五臓六腑の疾患をなおすのに背中に灸をすえ、鍼を刺し、指圧をするのだそうである。

これに、プラトーンの『饗宴』にある、かつて人間は男女が背中あわせにくっついた球体だったが、あまりに倣慢だったため、神々の怒りを買って背中から断ち切られ、べつべつに追放されたという例のplatonic love 説を持ってくれば、肉体的(フィジカル)と精神的(メタフィジカル)と二つの根拠がそろって、背中の悲しみの理由が明らかになる。

しかし、この万感こもごもなる背中、なぜ男の背中でなければならないか。

陰陽五行説をもう一度持ち出して、男はもともと陽の存在だから陽の背中にその内面が集中的に現れるのだといえば『黄帝内経』の著者にあまりのこじつけと叱られようか。

男が背中を向けているだけで、そのこちらむきの背中には男の万感ことごとく集中して、その背中には顔以上の表情がある



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― posted by 大岩稔幸 at 01:42 am commentComment [1]

ばら色の夕焼け

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 三人の粗末な身なりの男たちが語らいながら夕暮れの道を歩いている。道の向こうには赤い色の建物。そして空にはばら色の夕焼け雲が浮かんでいる。三人のうち真ん中の一人だけが神秘的な純白の衣服をまとっている。

 ジョルジュ・ルオーの連作版画『受難(バッシオン)』 の一枚「キリストと弟子たち」。白い衣服はキリストである。ルオーは親友で詩人のアンドレ・シュアレスの詩篇「受難」 に啓示を受けて、この木版画を制作した。ルオー最晩年のステンドグラスを思わせる重厚な質感と深い色調の作品である。シュアレスの詩にこんな一節がある(『ルオー「受難」』岩波書店)。

かくも白い姿の御方のまわりに
円光が孔雀の尾を拡げる
白熱の火、御顔は熟である
裳なき御衣は船首の舷燈
音なき御足音は純白の船である

 白は聖なる色であり、神の色である。シュアレスにとってもルオーにとっても、キリストは白い衣をまとう「白い姿の御方」でなければならなかった。

 この何かを深く問いかける作品は、長野県の諏訪湖の湖畔に建つ白亜の美術館「ハーモ美術館」 に展示されている。ここにはアンリ・ルソーやマチスの作品などが所蔵されているが、館内の多目的ホールの壁にルオーの 「受難」をはじめ「ミゼレーレ」 「サーカス」などが並べられている。

 このホールではコンサートも開かれる。もしここで、ルオーの作品に囲まれながら、アレグリの 「ミゼレーレ」やヤフオーレの「レクイエム」を聴くことができたら、それこそこの世のものとは思えない天上の法悦にひたる一瞬ではないだろうか。

 
 ところで、イエスと弟子たちはどこへ向かって行こうとしているのか。「受難」という主題からはイエス処刑前と考えられるが、この画面からは、イエスが死後三日して復活したあと、弟子たちの前に現われた話の一つ 「エマオの旅人たち」 の場面を思い起こさせる。

 「ルカによる福音書」24の13〜14によると、「弟子の二人、エルサレムよりおよそ三里離れたエマオという村に行く途中、起こりたる凡てのことを語りあいしが、イエス御自ら近づきて彼等に伴い居たまえり。されど彼等の目は之を認めざるよう覆われてありき。」

 イエスが死んで三日目の黄昏、二人の弟子がエマオ村に戻っていくと、誰かがその道の途中そばについてくる。そして悲しんでいる彼らになぜかとたずねる。二人の弟子はエルサレムでイエスが殺された話をする。彼らはまだ自分たちのそばにいる人がイエスであることに気づかない。やがて家に入り食事を共にし、この人がイエスであることを知る。

 作家遠藤周作は、この挿話はイエスが死後も同伴者として弟子たちのそばにいるという宗教体験を語るものであると書いている(『キリストの誕生』)。

 はじめはだれかわからなかったが、やがてその人こそ自分と共に歩んでくれる人であることがわかってきた。魂が通じ合ったからである。

 私たちにはさまざまな道づれ(同伴者)がいる。親子や夫婦という人生の同伴者(ライフ・メイト)。友人や隣人という社会的な同伴者(ソーシャル・メイト)。不安や痛みを分かち合える心の同伴者(メンタル・メイト)。

 これだけの同伴者に恵まれているだけでも幸せといわなければならないが、じつは、人は死を前にしたようなとき、「わたしの人生はなんだったのか」 「死んだらどこへいくのか」といった人間存在の根源的な問いに出会う。

 そのとき、それを語り合える同伴者を求める。それは家族でも友人でもない。それは魂の同伴者(ソウル・メイト) とでも呼べる人である。

 エマオの旅人たちにとって、それはイエスであった。彼らにとってイエスは家族や友人を超える魂の同伴者であった。

 宗教をもたない人でも宗教的体験に近い魂にふれるような人との出会いがあるのではないか。その相手はその人にとって魂の同伴者である。

 このルオーの作品は宗教画であるが、キリスト教という宗教をはなれて、この白い衣の人を魂の同伴者と考えることもできるのではないか。

 その人はだれなのかはじめはわからない。しかし、話を交わしふれ合っていくうちに、この人こそ自分の魂の同伴者であることをさとる。そして、そうした魂の同伴者と出会えると、それまでの人生の考え方あり方が一変し、人生の苦悩や生死の苦痛を一気に超えられるにちがいない。

 こうした魂の同伴者にめぐり会える人はよほど幸運というべきであろう。もしめぐり会えるとしたら、いつ、どこでめぐり会えるのか? それは誰も予測できない。おそらく長い苦痛と深い渇望を耐えしのんだすえ、不意にめぐり会えるのかもしれない。
          
 それにしても、この三人の行く手の空に浮かぶ夕焼け雲のなんという荘厳さ。これほどの雲を描いた画家はこれまでいたであろうか。

 このばら色の雲は、夜に入る前の青い空をいっそう強調するかのように、日没の壮大な響きを奏でている。

 ばら色というのは、「ばら色の人生」というように、希望の色である。あるいは「ばら色の暮らし」といえば優雅な暮らしをいう。しかし、ルオーがここで描いたばら色の夕焼け雲は、そうした通俗的なばら色願望とはおよそ異質なものである。

 遠藤周作は『死海のほとり』 『イエスの生涯』 『キリストの誕生』 の三部作によく夕陽や夕焼けの場面を書いている。その新潮文庫のカバーはいずれも夕焼けの写真である。彼はルオーをこよなく愛していた。

 たとえば『死海のほとり』の「奇蹟を待つ男」アンドレアは、夕陽が禿山を狐色にそめる中をイエスが弟子たちを連れておりてくるのをたびたび見ている。

 私たち日本人は夕陽や夕焼けにとりわけ親和感を抱いている。古くから短歌や俳句には夕陽や夕焼けが数限りなく詠まれてきた。日本人には浄土思想にむすびつく落日信仰といえるようなものがある。それは民話や童謡にまで受けつがれている。夕陽や夕焼けは日本人の魂の遺伝子に組み込まれている。

 日本的キリスト教観を追求してきた遠藤周作がイエスを登場させるとき、そこに夕陽がさしているのは、日本人のメンタリティ(心性)の現われであろう。日本人にルオーの作品を熱愛する人が多いのは、夕陽や夕暮れの場面が多いからかもしれない。

 キリストと弟子たちの行く手には、ばら色の夕焼け雲が大きく一つ浮かんでいればいい……。

 そして、この三人とおなじように、魂の同伴者たちが歩く道にも、このばら色の夕焼け雲がふさわしい。

 


癒しの美術館
ルオー「キリストと弟子たち」
北里大学名誉教授
立川昭二

Vita No.99
2007年4月発行

― posted by 大岩稔幸 at 10:21 pm commentComment [1]

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