男の股間

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男性の股間は古代ヨーロッパにおいては必ずしも厭うべきもの、おしかくすべきものではなかった。古代ギリシア彫刻がいい証拠である。これを厭うべきもの、おしかくすべきものとしたのは、ユダヤから古代世界一円に広がったユダヤ・キリスト教である。かくして、ギリシア彫刻の股間は「石もて」破壊され、失楽園ゆかりの無花果が酷刑のあとを覆うこととなる。中世という時代は、男性の股間にとってもまた、晴黒時代だったのである。

さて、男性の股袋だが、その発生はイタリアの中世から近世への脱皮期の、いわゆる文芸復興と関係があるのではなかろうか。股袋の役目はもちろん、その中身の偉大さを誇示するにある。ルネッサンス(文芸復興)の復興とは古代復興の謂いである。古代ギリシア・ラテンの文学芸術とともに、男性の股間もまた復活したのではないか。ミケランジェロの有名なダヴィデ像は、その何より雄弁な証拠であろう。

彫刻の股間にあるべき果実がみのると同時に、生ける男性たちの股間に股袋なる果実がみのってきたのでほあるまいか。しかし、中世という時代が世界じゆう、いたるところで男性の股間を弾圧していたわけでほない。たとえば、ヨーロッパ・キリスト教世界と敵対していた中近東回教世界である。ここには、ギリシア・ラテン以来の学問芸術が生きているとともに、男性の股間に正当な評価を認める古き佳き伝統も生きていた。

アラビアン・ナイト『千夜一夜物語』の第21夜に処女シャーラザードが語る「大臣ヌーレディーヌとその兄大臣シャムディーヌとハッサン・バドレディーヌの物語」には魔女によってダマスコの城門の外に眠ったまま連れてこられた青年ハッサンを、朝、城門が開いて外に出た市人たちが見つけてとり囲む条がある。「ところで一同がかうして話しあつてゐると、朝の微風が吹いて来て美しいハッサンをなぶり、その肌着をもちあげました。すると、すべてが水晶のやうな、腹や臍や腿や脚や、又陰茎と非常に形のよい陰嚢が現はれるのが見えました」というのが、そこの描写である。この健康無比な態度はどうだろう。ここでは、訳語にある「陰茎」「陰嚢」の「陰」の字までがふさわしくなく思われるほどだ。

いったい、「陰茎」、「陰嚢」という陰惨な訳語はどういう頭によって案出されたのだろうか。だいいち、陰部という用語は女性のその部分にはふさわしくても、男性には似合わないというのが、私の持論である。陰は陰陽の陰であり、あくまでも女性的原理を表わすものだからである。

陰・陽にカクレル・アラワレルという対応した訳があるとおり、生理的な形状もまた、女性のそれは肉体の内部に陰れ、男性のそれは外部に陽われている。男性のばあい、それをいうならむしろ、陽部といい、陽茎、陽嚢とすべきではあるまいか。そうでなければ、古来、易にいう「陰陽合体」は「陰陰合体」となるほかなく、これでは万物も生じょうがないではないか。
                        
陰の字を使うようになったのは、儒仏思想による性を隠すべきものとする考えかたの影響に相違あるまいが、褌でかくそうとブリーフでかくそうと、中身の陽はあくまでも陽でありつづける。ドイツの詩人ライナー・マリア・リルケがいうように、男性の股間はあくまでも「生殖の光りかがやく中心部」なのである。だからこそ、わが国のポーノグラフィーの鼻祖と崇められている鳥羽僧正も、その抱腹絶倒の傑作の題名を「陽物比べ」として、「陰物比べ」とほしなかった。

男性の股間についてなされたわが国で最も美しい表現は何かとならば、少少突飛に思われるかもしれないが、私は世阿弥の『風姿花伝』をはじめとする花の理念を挙げたい。世阿弥の「花」はいうまでもなく能楽の美の象徴だが、この「花」とほじつは性的魅力のことであり、さらにいえば股間の魅力のことだと、私は思うのだ。

周知のとおり、花は植物の「生殖の光りかがやく中心部」である。植物の生殖器である花に能楽の美を象徴させた世阿弥の意味するところを、私たちは考えなおしてみる必要があろう。
                    
当時、能楽は今日では想像できぬまでに煽情的(エキセントリック)な芸能だったし、世阿弥じしん12歳の「花」の魅力によって時の青年将軍、足利義満公に見いだされてその寵愛を受け、それがそのまま能楽の大成につながり、「花」の理念の完成につながったのであった。

股間の表情というと人は眉をひそめるかもしれないが、そのあからさまな緊張と紅潮を考えるまでもなく、股間の表情の直截的なこと、顔の表情以上といえよう。いや、股間の個性という表現だって、じゆうぶん成立する。股間のかたち、いろ、つやについては、それこそ十人十色、いっそ男の美醜をここで決めてほどんなものかという説があるほどだ。花が植物の生殖器であり、股間が人間の花であることを思えば、この意見、あながち奇矯とはいえまい。

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― posted by 大岩稔幸 at 11:37 pm

 

大切なものとの邂逅

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 私たちは苦しいとき、辛いとき、また人生の節目の折々に目には見えない神仏を求めたりします。私は特別に熱心な信者というわけではありませんが、困ったときの神頼みというか、神仏を信じたいという気持ちになることがあります。

 もしも、生まれた目的を忘れ、孤独に泣いたとしても、私を見つめ思いやる存在があると。ときにうちひしがれ、人生に絶望していても、そっと寄り添う存在があると。そう信じての神頼みです。

 私は霊能者でも、超能力者でもない普通の人間ですが、現世の視点で物事を見つめると同時に、肉体を持たないものたちや、魂の視点で私に見えるものがあるとしたら、それらの言葉を代弁すべく、制作がしたいと考え興味を持つようになったのです。

 いうまでもありませんが、絵に措かれている龍は架空の生き物です。目には見えず、物質としては存在しません。けれどそのような対象への、敬意や憧れ、崇高なものとして位置づけられている存在と、思いがけなく出会うことができたとしたら、どんなに喜びを得られるだろうか。絵に表現したかったものは、そんな私の精神世界です。また、私は一人ではない、守られていると感じたいゆえに、人は皆一人ぼっちではない、目には見えなくとも本当に大切なものに気づいているのだろうか、そして気づいてほしい、さらに私自身そうありたいという願望も込められています。

これまで私が経験し、良くも悪くも心が揺り動かされた事物が大きく影響しています。そして今私は、私たちを取り巻く現代はまさに混沌と、不確実な時代へと突き進むべく、漠然とした不安にとらわれながら生きている人がいると感じるのです。なぜそれほどの孤独感にさいなまれ、無力感にとらわれる人がいるのでしょうか。

 それは、現代にはびこる経済、物質至上主義の価値観に一喜一憂し、自分が今ここに在ることの意味を失っているからに他ならないからだと思うのです。そこで必要なのは、静寂のなかにそっと身を置き、聞こえてくる自分自身の言葉。私はどれだけ耳を傾けることができているのか計り知れませんが、心の目を見開いて、ありとあらゆる感覚で本当に大切なメッセージを受け止めて生きてゆきたいです。本当に大切なものは目には見えません。

それに気づき精神を重んじられるようになれば、幸せの価値が物質ではなく一人ひとりの心にあり、有限な物質と折り重なつて存在するのだと理解できます。だから私は、目に見えるもの見えないもの、美しいものそうでないもの、ささやかに語りかけてくる声に柔軟に反応し、学び続けたいと思います。

― posted by 大岩稔幸 at 06:54 am

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