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コローのモナリザ

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 「真珠の女」というタイトルは、コロー自身がつけたものではない。後世のだれかが、額に一つだけかかっている小さな髪飾りを、真珠と見聞違えてつけたタイトルが通用してしまった。髪飾りは真珠ではなく、頭にかぶった網に、草の葉を点々とつけた一つが、たまたま額の中心にきたものだ。モデルの服装などからみて、真珠に見聞違えたのが不思議なくらいである。

 フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」もヨーロッパでは好まれているよだが、あちらの人びとは真珠が好きで、なんでも真珠に見えてしまうのかもしれない。

 モデルはコローのアトリエの近所に住んでいた商人夫妻の娘、ベルト・ゴールドシュミットではないかといわれている。これは、この作品のあとに描いた、「ド・フードラ嬢」のモデルが、やはりコローのアトリエに近いタバコ商人の娘だったこともあって、身近な人物と考えられたようだ。

 フードラ嬢も「真珠の女」同様、髪に草の葉と花の飾りをつけている。 こういう髪飾りが、娘たちの間で流行っていたのだろうか。

 いずれにしても、「真珠の女」はすでにモデルの肖像画の域を超えた絵になっている。ダ・ヴインチの「モナリザ」も、ある商人の妻を措いたものであることが、最近の研究でいよいよはっきりしたようだが、しかし、「モナリザ」
のモデルがだれであろうが、今では問題ではない。コローの「真珠の女」の場合も、同じである。この絵の女の顔は、コローが手もとにおいて、コツコツと磨き上げたマドンナなのだ。

 「真珠の女」のポーズを見ると、膝の上で組み合わせた手の形など、ダ・ヴインチの「モナリザ」によく似ていて、コロー自身、「モナリザ」を意識していたことは十分に考えられる。

 「真珠の女」は、バッと見るとほとんどセピアのモノクロームに近い絵である。これは、もしかするとコローが早くから関心を寄せていた写真となんらかの関係があるのかもしれない。50代後半のコローの肖像写真も残っている。写真を通して、色彩をあまり使わない、モノクロームに近い画面から生まれるリアルさのようなものを、コローは発見したのではないか。

 もう一つ、「真珠の女」のモデルは、「モナリザ」のそれのように、一目見てなんとなく微笑しているようには見えない。静かで、どちらかといえば硬く、もの思わしげな表情をしている。しかし、「真珠の女」をじっと見ていると、なにか今にもほほ笑みでも見せそうな娘らしい気分が、ほのかににじみ出てくるのだ。そう望んで見つめるせいなのか。いや、それだけではないと思う。

 「真珠の女」は、ただ真面目な表情の女を措いたのではない。生命がたたえられて、こぼれ出しそうな、静かな一瞬とでもいうべきものをとらえている。それこそが、コローが手を入れ続けながら、この絵で追求していたものだったのではないかと思うのである。

 コローは「真珠の女」を描き始めたころ、リウマチの発作に苦しめられるようになっていたといわれる。そのために大好きな戸外の写生がままならなくなり、室内で仕事をするようになった。常に風景を求めて歩き回っていた画家が、動けなくなったというのは、われわれの想像をはるかに超える苦痛だったに違いない。だが、それが彼の人物画に深化をもたらすことになった。

 風景画も人物画も、コローの絵にはえもいわれぬ静けさが感じられるが、それは冷たい客観化ではなく、内側に熱い心を秘めた静けさである。

 「真珠の女」というタイトルは間違いからつけられたが、しかし、ここに措かれた女性がすでに磨かれた真珠であり、くしくも絵の本質をいい当てたものになった。絵が、真珠の温かさをもっている。








大塚薬報
2008年9月号
No.638

― posted by 大岩稔幸 at 09:27 pm

大切なものとの邂逅

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 私たちは苦しいとき、辛いとき、また人生の節目の折々に目には見えない神仏を求めたりします。私は特別に熱心な信者というわけではありませんが、困ったときの神頼みというか、神仏を信じたいという気持ちになることがあります。

 もしも、生まれた目的を忘れ、孤独に泣いたとしても、私を見つめ思いやる存在があると。ときにうちひしがれ、人生に絶望していても、そっと寄り添う存在があると。そう信じての神頼みです。

 私は霊能者でも、超能力者でもない普通の人間ですが、現世の視点で物事を見つめると同時に、肉体を持たないものたちや、魂の視点で私に見えるものがあるとしたら、それらの言葉を代弁すべく、制作がしたいと考え興味を持つようになったのです。

 いうまでもありませんが、絵に措かれている龍は架空の生き物です。目には見えず、物質としては存在しません。けれどそのような対象への、敬意や憧れ、崇高なものとして位置づけられている存在と、思いがけなく出会うことができたとしたら、どんなに喜びを得られるだろうか。絵に表現したかったものは、そんな私の精神世界です。また、私は一人ではない、守られていると感じたいゆえに、人は皆一人ぼっちではない、目には見えなくとも本当に大切なものに気づいているのだろうか、そして気づいてほしい、さらに私自身そうありたいという願望も込められています。

これまで私が経験し、良くも悪くも心が揺り動かされた事物が大きく影響しています。そして今私は、私たちを取り巻く現代はまさに混沌と、不確実な時代へと突き進むべく、漠然とした不安にとらわれながら生きている人がいると感じるのです。なぜそれほどの孤独感にさいなまれ、無力感にとらわれる人がいるのでしょうか。

 それは、現代にはびこる経済、物質至上主義の価値観に一喜一憂し、自分が今ここに在ることの意味を失っているからに他ならないからだと思うのです。そこで必要なのは、静寂のなかにそっと身を置き、聞こえてくる自分自身の言葉。私はどれだけ耳を傾けることができているのか計り知れませんが、心の目を見開いて、ありとあらゆる感覚で本当に大切なメッセージを受け止めて生きてゆきたいです。本当に大切なものは目には見えません。

それに気づき精神を重んじられるようになれば、幸せの価値が物質ではなく一人ひとりの心にあり、有限な物質と折り重なつて存在するのだと理解できます。だから私は、目に見えるもの見えないもの、美しいものそうでないもの、ささやかに語りかけてくる声に柔軟に反応し、学び続けたいと思います。

― posted by 大岩稔幸 at 06:54 am

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