お尻について

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私たちがヴィーナスと呼びならわしているアフロディーテーを、はじめて裸にして彫刻に表現したのは、ギリシア古典期の大彫刻師プラクシテレースだといわれている。以後のヴィーナス像はほとんどが裸体像として作られ、ヴィーナスはヌードの代名詞にまでなるのだが、そのうち最もエロティックな傑作のひとつが「カピトリーノのヴィーナス」であろう。

かたわらに脱いだ衣を置き、右手を両の乳房に、左手をいわゆるヴィーナスの丘に軽く置いた、この女神というよりは遊女というほうが似合いそうな像は、ローマ七丘のひとつカピトリーノ丘に位置したカピトリーノ美術館にある。この像の前に立って、この像の魅力の中心はいずこかと、私はしばし考えたものだ。
      
結論に達したのは、像の前に立つのをやめて、後ろに回ったときである。そこには、天地創造の第何日目かにつくられた最初の果実でもあるかのような、みずみずしくふくよかなお尻があって、前面の乳房やヴィーナスの丘も、なるほどこのどっしりしたものが背後にひかえていればこそ、存在しうるのだなと、思わせるものがある。

わが日本古来の俗語でお尻のことをお居処(いど)とはよくもいったり、まことにお尻は人間の存在感の原点だと、感に堪えたものだ。こういうわけで、私はヴィーナスの魅力の中心をお尻だと結論したのである。

もちろん、この意見には反論もあるだろう。ある人はヴィーナスの魅力は顔だというだろう。しかし、美術史的にはヴィーナスの変形とされる「サモトラスのニケ」には頭部が欠けている。欠けているにもかかわらず、ニケの像の美しさは他の多くのヴィーナス像と比べても、おさおさ劣らない。

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またある人は乳房こそヴィーナスのヴィーナスたるゆえんだというかもしれない。それなら、ここで私は、『裸のサル』なるきわめてユニークな人間論を書いたアメリカの心理学者、デズモンド・モリスの授けを借りることにしょう。

モリスによれば、人間の本質的なものはすべて後ろがわにあるが、これが信号として前面に現われる。そして、乳房とは後部にあるお尻の前面に現われた信号だというのである。

俗流のことわざの『尻を追っかける』という言葉も側面からモリスの説に賛意を表している。「尻を追っかける」とは魅力を追っかける謂いだが、同じことを表わすのにまかりまちがっても「乳房を追っかける」という人はないからである。

だいぶ長くなったが、じつはここまではまだ枕である。これから本論たる男性のお尻に移らなければならない。ギリシア彫刻には美しさの点でヴィーナス像に代表される女性像に勝るとも劣らない多くの男性像がある。たとえば有名な「プラクシテレースのヘルメース」は、同じ彫刻師の「クニドスのアフロディーテー」よりはるかに美しいと、私には思われる。そして、その美しさの中心は、やっぱりお尻にあると、私は思うのである。

いや、「やっぱり」というような消極的ないいかたは正確ではない。「やっぱり」では、男性のお尻の美しさを女性のお尻の美しさの類推(アナロジー)で見ていることになる。これでは男性は女性の一変形(バリエーション)にすぎないということに等しい。

たとえば近代美学の基礎をつくった18世紀ドイツの美学者ヴィンケルマンの解釈は、まったく逆である。ヴィンケルマンはギリシア彫刻の基本は男性像にあり、女性像ほすべて男性像の美の基準をもとにつくられているといっているのだ。

この考えをお尻の美学に敷衍(ふえん)すれば、女性のお尻の美しさから男性のお尻の美しさが引き出されるのではなくて、かえって男性のお尻の魅力から女性のお尻の魅力がもたらされるということになろう。

女性のお尻に比べて男性のお尻のほうがなぜ美しいか。このことの研究でヴィソケルマンはもとより、あらゆる時代あらゆる国のどんな美学者より深く考え、比類なく独自な結論を出した偉大な人がわが国にいる。『少年愛の美学』の作家イナガキ・タルホ先生がその人である。

イナガキ先生の『ユーモレスク』という文章によると、大便所にはいるとき、女性はしゃあしゃあとしているのに、男性はなんとなく恥ずかしげである。これは女性には大便所にもうひとつの用があるのに対して、男性にはただひとつの用しかないからである。ただひとつの用とは何か? 表向きは排便だが、より根本的には性感の満足であると、タルホ先生はいう。ここからイナガキ・タルホの空前絶後に壮大なA感覚性感宇宙論が構築される。

A感覚性感宇宙論とは、これをわかりやすくいえば、二本足で立って歩く人間は一種の鳥である。鳥は飛びながら食べ、飛びながら脱糞する習性が示しているとおり、ロから肛門までひとつづきの一本の管からできていて、これをさまざまのものが覆っているにすぎない。このことをさらに推し進めれば、ウニ、ヒトデなどの腔腸動物にまでたどりつく。
                 
ところで、ウニ、ヒトデにおいては排泄ロと生殖器がひとつである。ここから、人間も本来は排泄ロと生殖器がひとつで、その排泄と生殖の一致した聖なる場所こそ、肛門だというわけである。しかも、肛門は人間の性感の中枢であるにとどまらず、じつに存在の中枢であり、さらにいえば宇宙感覚の中枢であるというのが、『少年愛の美学』にいうイナガキ先生のA感覚性感宇宙論の根本である。

しかし、肛門なら男性と等しく女性にも存在するのだから、それを含むお尻を男性専属の魅力の中心というのは変ではないかとの反論があるかもしれない。この反論に対する解答はイナガキ先生じしんに用意されていて、それは女性にはA(=エイナス)の聖所のほかにV(=ヴァギナ)の偽聖所があるので、A感覚が的確に感得されない。Vが偽聖所であるゆえんは、Aが口までひとつづきの穴でそこから天空がのぞけるのに、Vはせいぜい子宮止まりで天空はのぞけないということにあるらしい。

男性にももちろんP(=ペニス)があるが、これは穴ではなくて凸出部であるから、女性のVのばあいほど、邪魔になるということはない。しかし、男性のばあいでもP感覚が未発達の少年のあいだがA感覚が最も優れている。『少年愛の美学』とは、このことであろう。

これを要するに、男の魅力あるお尻とは、少年のように愛らしく締まったお尻ということになろうか。さらにタルホ先生は、この双ケ丘の風景をただひと言に「人間の体の中で唯一つ年をとらない部分」というのである。

わたしはかすかに湿りをおびた滑らかなお尻のふくらみを、さりげなく手で撫でてみた。その手ざわりは、地中海の輝く太陽に暖められた磨き大理石のようだった。真珠のような色合いの肌は、強烈な明かりの中だけで見る桃の綿毛のような柔らかい肌色の産毛に覆われ、新鮮な汗に濡れてきらきらと輝いていた。

男のお尻は彼が宇宙と存在の原理を感得するための感覚の中心なのである。



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― posted by 大岩稔幸 at 01:14 am commentComment [1]

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