ある国がクシャミをすれば地球の反対側でも必ずカゼをひく時代。国の内外を問わず、どこかの選挙結果が、エネルギー政策や環境問題への取り組み、外交姿勢などを大きく左右し、その衝撃は簡単に国境を越えてしまう。八年前のブッシュ大統領の当選は、世界中でどれほど多くの人々の人生を変えただろう。
選挙の持つ可能性を考えると、投票に行かない有権者の気が知れない。「自分と関係ない」とか、「いいと思う人がいないから…」といった弁解も笑うけれど、なおあきれるのは、「投票しないのもーつの意思表示だ」という強がりの庇理屈。
棄権、それは届かない意思表示だ。選挙では、声なき人の意見はないも同然。数えられる票のみが影響力を持つ。候補者不足を理由にサジを投げず、むしろ当選しては困る人物を落とすために、よりマシな候補に投票するのも現実的な選択だと思う。
外国人の参政権をめぐって、日本社会の民族意識や秩序は保てるのかとか、憲法や最高裁の判決をどう解釈すべきかなど、これまで議論は山ほどあるが、ここでは、選挙と国益の関係から少し考えてみたいと思う。
「国益」といえば、政府はすぐに国際収支、軍事的影響力、資源の確保といった項目を並べるが、いずれにせよ、何が国益かを最終的に決めるのは主権者である国民自身だ。そして、一人一人が自分の「国益観」を数えてもらえる形で主張できるのは、まさに選挙です。
今の日本では、国民が国の主役だという割に、意思表示の機会が少なすぎると思う。首相は直に選べないし、重要案件についての国民投票の制度もありません。衆議院の解散も、現政権への世論の不満が高まれば先送りし、多少有利かと思えば行う。解散は与野党間の意見対立が煮詰まったときに民意を確認するのが第一義のはずだが、現状は政局乗り切りと我田引水の道具になっている。
将来、憲法改正を行うなら、まず、根本的な「国民益」を優先し、住民の意思表示の機会と手段を増やすところから始めてはいかがでしょう。
「持ち家」と「借家」とでは、どちらを大事にしますか? 多分、自分の考えに沿って手を入れられる持ち家の方だと思うが。
自分の価値観を反映させるプロセスにどの程度参加できるかで、参加する熱意も違ってくるはずです。住んでいる国をより健全な方向に、と努力する「住民」が多くなることが、真の国益の土台になります。
イーデス・ハンソン
国益の土台つくるために
2008年10月14日
高知新聞朝刊 現論
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