プラチナ革命

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 プラチナであれば、ゴールドほど派手でもないし、シルバーほど地味でもない。映画化され大ヒットした「失楽園」や、日経新聞連載中に異例の盛り上がりをみせた「愛の流刑地」など、渡辺淳一さんの小説には、激しい生き方をつらぬく男女が数多く描かれています。

 その延長線上にある近著「熟年革命」では、50歳代からのシニアを『プラチナ世代』と名づけ、彼の小説の主人公たちにも重なる、完全燃焼する人生スタイルを提案しています。

 「シルバー」と「プラチナ」。なるほど言い方ひとつで受けるイメージが違ってくるものですが、そんなオジサマ・オバサマ族が、もっとかっこよく、もっと輝いて生きていくためにはどうすればよいのでしょうか。

 渡辺淳−さんは、「歳をとればとるほど不良になろう」と呼びかけています。おそらく、歳をとるたびに常識的で小うるさくなっていく、自分のなかの“高齢成分”をコントロールしようということでしょう。

 プラチナ世代は、ご唱和ください。「われわれは世間体にこだわらず、常に好奇心いっぱいに、好きなものを追いかけ、相手と自分をほめて、お酒落で素敵なワルになることを誓います」
(渡辺淳一著「熟年革命」より)

― posted by 大岩稔幸 at 11:56 pm

戦争文化と平和文化

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 「戦争の文化」は誰のため、何のために戦うかを考える文化だ。自分のためか」家族のためか、国のためか。しかし「全世界のために」という発想はない。この文化は「敵」が必要だからだ。ライバルへの憎しみや恐怖をバネにして戦う。両者とも「我こそが正義」と思っている。勝った者は「神のおかげだ」と
言い、負けた者は「神が見捨てた」と言う。「殺される前に殺せ」が「戦争の文化」。

 一方、「平和の文化」は、対立が起こるとまず解決策を考える。すべての当事者が納得し幸せになる方法を探す。半分が喜び、半分が悲しむという結果は望まない。攻撃されたとしても「非暴力」に徹する。「殺すくらいなら死んだ方がまし」と考える。

 この「非暴力」を教えようと多くの人が現れた。その一人がイエス・キリスト。彼は「敵を愛せよ」と言った。拷問を受け殺されたが、神になっても拷問した者を殺しはしなかった。ガンジーや、キング牧師も同様だ。われわれに「非暴力」を教えようとしたが、準備が足らず殺された。

  平和を貫くためには「戦うくらいなら死んだ方がまし」と考える「非暴力」の覚悟がいる。人類はそれに向けて意識転換をしていかねばならない。「非暴力」が平和につながるという考えは、今アメリカで大きな議論になっている。イスラエルとパレスチナの関係で。ある平和運動家は「あまりにもイスラエルはパレスチナに対して悪いことをしている。

 パレスチナ人は暴力を使っても戦う権利がある」と言う。しかし暴力を使う限り、平和は永遠に来ない。もし平和が大事だと思えば、何のためにも戦わないことだ。戦う人は駄目だと考えなければいけない。

 アメリカはストレスを受けている。一つはオイル。安いオイルがあることの前提で、世の中は成り立っている。日本のオイルは、アメリカによって手に入る。アメリカは世界人口の4%なのに、25%のオイルを使っている。中国、インドが発展すれば、オイルはもっと使われる。このオイルをどう確保するのか。オイルのために戦争をするのか。

 ソ連とアメリカの冷戦が終わり、アメリカは世界のボスになろうとしていた。戦争文化だから、そう思っていた。オイルや水をコントロールしようとしていた。しかしアメリカはもう力がない。政治的にも経済的にも。あとは軍事的な力しかないが、それも失敗に終わるだろう。アメリカ帝国は終わり世界の秩序は崩れる。

 ローマ帝国やスペイン帝国もそうだが、帝国が終わる時には戦争が起こる。イギリス帝国末期には、第一次世界大戦が始まった。このままの「戦争の文化」の考えでは、戦国時代になる。

アメリカ人がアメリカを変えることはできない。「平和文化」を進めようとしている人があまりにも少ない。アメリカは「戦争の文化」のリーダーだ。「平和文化」のリーダーが必要。なれるのは日本しかいない。アメリカに対してもっとメッセージを出すべきだ。





2008年10月7日
高知新聞朝刊


 父は洞爺丸で犠牲

 スティーブン・ロイド・リーバーさん 米イリノイ州生まれ。1985年から広島市を拠点に平和関係資料などを翻訳する傍ら「世界平和運動家協会」を主宰。2007年、財団法人広島平和文化センター初の外国人理事長に就任、全米101都市で原爆展開催を目指す。父親の故ディーン・リーバー氏は1954年に1155人が死亡した青函連絡船「洞爺丸」の遭難で、自らの救命胴衣を日本人に渡し犠牲となった。三浦綾子さんの小説「氷点」にも描かれている。

― posted by 大岩稔幸 at 10:19 pm

選挙と国益

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 ある国がクシャミをすれば地球の反対側でも必ずカゼをひく時代。国の内外を問わず、どこかの選挙結果が、エネルギー政策や環境問題への取り組み、外交姿勢などを大きく左右し、その衝撃は簡単に国境を越えてしまう。八年前のブッシュ大統領の当選は、世界中でどれほど多くの人々の人生を変えただろう。

 選挙の持つ可能性を考えると、投票に行かない有権者の気が知れない。「自分と関係ない」とか、「いいと思う人がいないから…」といった弁解も笑うけれど、なおあきれるのは、「投票しないのもーつの意思表示だ」という強がりの庇理屈。

 棄権、それは届かない意思表示だ。選挙では、声なき人の意見はないも同然。数えられる票のみが影響力を持つ。候補者不足を理由にサジを投げず、むしろ当選しては困る人物を落とすために、よりマシな候補に投票するのも現実的な選択だと思う。

 外国人の参政権をめぐって、日本社会の民族意識や秩序は保てるのかとか、憲法や最高裁の判決をどう解釈すべきかなど、これまで議論は山ほどあるが、ここでは、選挙と国益の関係から少し考えてみたいと思う。

 「国益」といえば、政府はすぐに国際収支、軍事的影響力、資源の確保といった項目を並べるが、いずれにせよ、何が国益かを最終的に決めるのは主権者である国民自身だ。そして、一人一人が自分の「国益観」を数えてもらえる形で主張できるのは、まさに選挙です。

 今の日本では、国民が国の主役だという割に、意思表示の機会が少なすぎると思う。首相は直に選べないし、重要案件についての国民投票の制度もありません。衆議院の解散も、現政権への世論の不満が高まれば先送りし、多少有利かと思えば行う。解散は与野党間の意見対立が煮詰まったときに民意を確認するのが第一義のはずだが、現状は政局乗り切りと我田引水の道具になっている。

 将来、憲法改正を行うなら、まず、根本的な「国民益」を優先し、住民の意思表示の機会と手段を増やすところから始めてはいかがでしょう。

 「持ち家」と「借家」とでは、どちらを大事にしますか? 多分、自分の考えに沿って手を入れられる持ち家の方だと思うが。

 自分の価値観を反映させるプロセスにどの程度参加できるかで、参加する熱意も違ってくるはずです。住んでいる国をより健全な方向に、と努力する「住民」が多くなることが、真の国益の土台になります。  



イーデス・ハンソン
国益の土台つくるために
2008年10月14日
高知新聞朝刊 現論

― posted by 大岩稔幸 at 11:37 pm

ミツバチマーク

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「クレオパトラはハチミツパックをしていた」
「ローヤルゼリーを愛飲していた」
「クレオパトラの王冠にはミツバチマークが記されていた」

エジプトとミツバチには深い縁があるらしい。現代でもその効用が見直されているハチミツであるが、エジプトでは紀元前から養蜂をしていたという。そしてそのミツバチは絵やレリーフとして今なお残されている。遺跡を巡ると、いたるところで簡単にミツバチマークを見つけることができる。なぜなら、ミツバチはロータスやパピルスと同様にエジプトの象徴だからである。

 エジプトに砂糖が入ってきたのは紀元前4世紀、アレキサンダー大王のエジプト遠征による。それまで古代エジプトでは、甘味料といえばハチミツとナツメヤシであった。ミツパチは太陽神ラーの涙が変化したものであり、そのミツバチが集めたハチミツは神からの贈り物であったといわれる。

 古王国時代(紀元前2686年頃〜紀元前2185年前後)にはデルタ地帯を中心に野生のミツバチが集められるようになった。そのためミツバチは下エジプトの象徴となり、上エジプトの象徴スウト草(スゲ)とあわせて“上下エジプトの支配者モの意としてファラオのカルトウーシュ(王名枠)の前に記されるようになった。壁画やレリーフに描かれているミツパチマークをたくさん見つけることができるのはこのためである。

 古王国時代からハチミツは神々への供物、儀式で欠かせない物として珍重され、養蜂も行われるようになった。そして中王国時代(紀元前2040年頃〜紀元前1782年頃)になると、高官への報酬としてハチミツが用いられるようにもなった。

 そして養蜂が盛んになると王家は課税するようになったため、大量のハチミツが税として徴収され、それが王の名で神殿に奉納されることになった。ハチミツは甘味料としてだけでなく、ビール、パン、ワインと同様に神々への供物として重要だったのである。

 ミツバチの誕生はおよそ6,600万年前といわれる。人類の誕生が約400万年前であるから、どれだけ地球上に生き永らえているかがわかる。そもそもミツパチと人類のかかわりは古く、スペインのアラニア洞窟で発見された約1万年前の壁画に、蜂の巣から蜜を採る女性の姿が描かれているという。

 そしてここエジプトでは紀元前600年頃の壁画に養蜂の様子が措かれたものがあるという。その壁画は古代都市テーベ(現在のルクソール)、有名なハトシュブスト女王葬祭殿にほど近い場所、第26王朝時代(紀元前600年頃)の執事であったパパサの墓(貴族の墓のひとつ)にある。この墓を訪れる人は少ないらしい。





大塚薬報 10月号 
2008/No.639

― posted by 大岩稔幸 at 11:02 pm

英国流ウオーキング

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 英語で、散歩やウオーキングを意味する表現には、stroll、ramble、walk、roam、picnic、hiking、wander、trekking などいろいろある。それぞれ微妙にニュアンスが異なるが英国人の標準的なウオーキングに相当するのは“ramble”だという。これは5〜10kmくらいの距離をぶらぶら歩くというイメージで、このためウオーキングをする英国人は「ランプラー」とも呼ばれる。

 ランプラーたちは、思い思いの格好で、街中でも農場でも海辺でも、歩きたい道を好きなべースで歩いている。英国で、このような歩行文化が普及してきた背景には、18〜19世紀に西欧で起こったロマン主義文化の影響が大きい。

 例えば作曲家のベートーヴェンや思想家のルソー、詩人のワ一ズワースらは散歩を好み、自然からインスピレーションを得て優れた作品を生み出したことはよく知られている。しかし、英国に歩くための道が張りめぐらされている背景には、実は労働者たちが“歩く権利”を勝ち取ってきた歴史の積み重ねもある。

 英国の支配者層の領土は広大だ。柵で囲われた広大な牧羊地も、見渡す限り途切れることがない。そのため身動きがとれない労働者たちは、抗議し、基本的人権として歩く権利の保証を求めるようになった。とりわけ第1次世界大戦時には、フットパスが大幅に延長・拡大した。国の−体感を高めて戦争に臨むためには、国土内を開放することが国策としても都合がよかったからだ。

 英国では現在でも、フットパスの拡大や管理の問題など、“歩く権利”にかかわる討議が国会で行われるという。

 一方、日本には、明治期に島崎藤村や坪内進達らの英文学着たちによって、ロマン主義が紹介される。「自然との一体感」「自然回帰」という概念は、仏教や神道が根付いていた日本では非常に受け入れやすく、歩く文化が普及していった。

 昭和に入り経済成長が始まると、富裕サラリーマン層を中心にハイキングが流行となり、高尾山や上高地、軽井沢などに出かけるようになる。そして最近は、生活習慣病予防などを目的としたエクササイズウオーキング、フィッ
トネスウオーキングが主流だ。

 日本人の凡帳面な気質から、わが国のウオーキングでは往々にして目標を設定し頑張って歩く傾向がみられるが、英国人のように生活の一部として楽しんで歩くことも知ってほしい。

 もし英国に行く機会があれば、せっかくなので、ぜひとも歩いてみたいと思う。とりあえずヒースロー空港を拠点として歩いてみてもいい。例えば、帰国の日に出発まで多少余裕があったら、朝のうちに空港に行って荷物を預けてしまう。そしてタクシーでテムズ川上流のマ一口ウかウインザーまで行って、空港までの道のりを歩いてみる。オクスフォードから空港までの道も美しい。途中で時間切れになったり疲れたりしたら、タクシーやバスを使って戻ればよい。

 目的もなくただぶらぶらと歩く楽しみ。そこで接する生の英国には、自然や人や動物や店や、様々な出会いと発見が待っていることだろう。








市村操一
東京成徳大学臨床心理学科教授、筑波大学名誉教授
1939年水戸市生まれ。東京教育大学(現筑波大学)大学院博士課程中退(心理学)、米国イリノイ大学大学院留学。教育学博士(心理学)。スポーツ心理学や認知行動心理学などの著書・訳書が多数。現在は“江戸”の散歩を楽しんでいるほか、ヘルマンヘッセが歩いた南ドイツやスイス、李白や王維が歩いた西安郊などのウオーキングを計画中

Innover 2008年秋

― posted by 大岩稔幸 at 11:40 pm

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